“朔(さく)” の例文
允成(ただしげ)は才子で美丈夫(びじょうふ)であった。安永七年三月朔(さく)に十五歳で渋江氏に養われて、当時儲君(ちょくん)であった、二つの年上の出羽守信明(のぶあきら)に愛せられた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
たとえば八朔(さく)の朝など、諸家の進物(しんもつ)で広間が埋まるほどな物も、そばから人に与えてしまうので、夕には一物もなかったということです。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
蓋(けだ)し春暖に至れば景隆の来り戦わんことを慮(はか)りて、燕王の請えるなり。春闌(たけなわ)にして、南軍勢(いきおい)を生じぬ。四月朔(さく)、景隆兵を徳州(とくしゅう)に会す、郭英(かくえい)、呉傑(ごけつ)は真定(しんてい)に進みぬ。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
十月朔(さく)。舟廻槻木ヲ歴(へ)テ岩沼ノ駅ニ飯ス。名取川駅ノ東ヲ遶(めぐ)ツテ海ニ入ル。晡時(ほじ)仙台ニ投ズ。列肆(れっし)皆卑陋(ひろう)。富商大估(たいこ)ヲ見ズ。独芭蕉(ばしょう)衢(く)ノ屋宇巍然(ぎぜん)トシテ対列スルノミ。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
五月晦(かい)六月朔(さく)のことなりし
六百五十句 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
池田氏では此年四月朔(さく)に分家京水の継嗣天渓瑞長(てんけいずゐちやう)が歿した。法諡(はふし)養源軒天渓瑞長居士である。其後を襲(つ)いだものは恐くは三矼(こう)二世瑞長であらう。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
十月朔(さく)に才(わずか)に二歳で家督相続をした成善と、他の五人の子との世話をして、一家(いっか)の生計を立てて行かなくてはならぬのは、四十三歳の五百であった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
十二月朔(さく)に二人は丸山邸に著いた。次で五日に江戸を発し、二十六日に福山に帰著した。公私略の文はかうである。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
四月朔(さく)に渋江氏は亀沢町の邸宅を立ち退(の)いて、本所横川(よこかわ)の津軽家の中屋敷に徙(うつ)った。次で十一日に江戸を発した。この日は官軍が江戸城を収めた日である。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
頼氏では此年五月朔(さく)に杏坪(きやうへい)が七十九歳で広島に歿した。わたくしは其集の末巻(まつくわん)を攤(ひら)いて見た。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)