春海はるみ)” の例文
俺を、学問に私すると云つた江戸の村田春海はるみ、古学を鼻にかける伊勢の本居宣長もとおりのりなが、いづれも敵として好敵ではなかつた。
上田秋成の晩年 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
木村文河、名は定良さだよしあざなは駿卿、通称は駿蔵、一に橿園きやうゑんと号した。身分は先手与力さきてよりきであつた。橘千蔭ちかげ、村田春海はるみ等と交り、草野和歌集を撰んだ人である。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
といふは春海はるみのなりしやに覺え候。これは不盡ふじの裾より見上げし時の即興なるべく生も實際に斯く感じたる事あれば面白き歌と一時は思ひしが今ま見れば拙き歌に有之候。
歌よみに与ふる書 (旧字旧仮名) / 正岡子規(著)
その門下にも加藤千蔭ちかげや村田春海はるみのやうに、国典の研究者といふよりは、むしろ歌文の秀才が輩出した。真淵の学統を真に受け継いだ者は、本居宣長唯一人と言つてもよい。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
赤星あかぼし家の第二回入札に、二千三百八十九円といふ値で春海はるみに引取られた飛青磁の香炉がある。
その改暦の功労者渋川春海はるみは数学者でなくして星学者であるが、実際その新暦法を作ったものは数学者の手に成り、渋川はこれを伝えられて改暦の運動をしたのだということである。
那智の観音本像は山茶の木で作るという。伊勢の一の宮都波木大明神は猿田彦をまつる(『三国地誌』二三)、村田春海はるみの『椿詣での記』に、その地山茶多しとあれば山茶を神としたものか。
詩仏しぶつ鵬斎ぼうさい詩文しぶんにてなぶりものにされたりといふことえたるが、もとより菊塢きくう世才せさいにはたけたれど学文がくもんはなし、詩仏しぶつ鵬斎ぼうさい蜀山しよくさん真顔まがほかげ春海はるみ当時そのころ聞人もんじん幇間半分たいこはんぶんなぶり者にせられしには相違さうゐなし
隅田の春 (新字旧仮名) / 饗庭篁村(著)
といふは春海はるみのなりしやに覚え候。これは不尽のすそより見上げし時の即興なるべく、生も実際にかく感じたる事あれば面白き歌と一時は思ひしが、今見れば拙き歌に有之候。
歌よみに与ふる書 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
春海はるみ滿潮みちじほきほひ荒く
泣菫詩抄 (旧字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
というは春海はるみのなりしやに覚え候。これは不尽のすそより見上げし時の即興なるべく、せいも実際にかく感じたることあれば面白き歌と一時は思いしが、ま見ればつたなき歌に有之これあり候。
歌よみに与ふる書 (新字新仮名) / 正岡子規(著)