天和てんな)” の例文
漢語は延宝えんぽう天和てんなの間其角きかく一派が濫用してついにその調和を得ず、其角すらこれより後、また用ゐざりしもの、蕪村に至りてはじめて成功を得たり。
俳人蕪村 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
尤も長崎から上方かみがたに来たのはかなり古い時代で、西鶴の作にも軽焼の名が見えるから天和てんな貞享じょうきょう頃には最う上方じんに賞翫されていたものと見える。
其上、綱宗は品川の屋敷に蟄居ちつきよして以来、仙台へは往かずに、天和てんな三年に四十四歳で剃髪ていはつして嘉心かしんと号し、正徳しやうとく元年六月六日に七十二歳で歿した。
椙原品 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
大塚御薬園は、その後まもなく取潰とりつぶしになり、天和てんな元年護国寺建立の敷地として召上げられた事は人の知るところです。
寛文かんぶん十二年二月二十一日晩方、高田殿は逝去した。天徳寺に之を葬った。天和てんな元年には、家断絶。世にいう越前家の本系は全く滅亡に及んだのだ。
怪異黒姫おろし (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
天和てんなの制法にありて養子は同姓より致すとあるも筋目をただすべき制法につきなにがし殿寄どのよりには以後養子を致すとも娘取り致すとも縁金と申すことを停止ちょうじせしめ
将来の日本:04 将来の日本 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
これは才麿という人が、一日一万句を江戸でよんだことに対抗したものであった。散文を書いたのは、天和てんな二年四十二歳の時で、『一代男』がそれである。
明治十年前後 (新字新仮名) / 淡島寒月(著)
正保しやうはう元年に生れた芭蕉は寛文、延宝えんぱう天和てんな貞享ぢやうきやうを経、元禄七年に長逝した。すると芭蕉の一生は怪談小説の流行の中に終始したものと云はなければならぬ。
芭蕉雑記 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
山東京伝さんとうきょうでんはその著『骨董集こっとうしゅう』において延宝天和てんなころ既に俳優坊主小兵衛ぼうずこへえを描ける一枚絵ありし事を言へり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
琉球の窯場を壺屋つぼやと呼ぶ。古くは色々の個所に窯場があった。中で湧田とか知花とか、名がよく聞える。しかし天和てんなの頃一カ所に集められ、今の壺屋を形造った。
現在の日本民窯 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
大塚御藥園は、その後間もなく取潰とりつぶしになり、天和てんな元年護國寺建立の敷地として召上げられた事は人の知るところです。
漢語は延宝えんぽう天和てんなの間其角一派が濫用してついにその調和を得ず、其角すらこれより後、また用いざりしもの、蕪村に至りてはじめて成功を得たり。
俳人蕪村 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
(もし一人でもゐたとすれば、この「鐘消えて」の句のことなどはとうの昔に気づいてゐた筈である。)しかし延宝えんぱう天和てんなかんの芭蕉は誰でも知つてゐるやうに
芭蕉雑記 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
余いまだその書を見る事あたはずといへども天和てんな年間菱川師宣ひしかわもろのぶが絵本『狂歌旅枕きょうかたびまくら』といふものありといふ。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「読本といふもの、天和てんな西鶴さいかくに起り、自笑じしょう其磧きせき宝永正徳ほうえいしょうとくに鳴りしが馬琴には三舎すべし」
八犬伝談余 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
島が屋敷奉公に出る時、おさななじみのお七が七寸四方ばかりの緋縮緬ひぢりめんのふくさに、紅絹裏もみうらを附けて縫ってくれた。間もなく本郷森川宿もりかわじゅくのお七の家は天和てんな二年十二月二十八日の火事に類焼した。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
越えて三年、天和てんな三年に『虚栗集』(其角編)世に出でたる時は、一般の俳句全く滑稽を離れて、僅に雅致を認めたるが如し。俳諧漸く正路に向へり。
古池の句の弁 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
こは天和てんな三年刊行の『虚栗みなしぐり』に出でたる句なり。そのほか元禄にも何々顔の句少からず。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)