)” の例文
中には身にみて感ずる句さへありしかば、ただその句、その書を面白しと思ふのみならず、俳句といふ者を面白しとまで思ひなりぬ。
俳句の初歩 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
いつも置いているのでありますが、その素焼のよごれた壺は、五月雨の降る暗い日などことに心にみて眺められます。
俳句の作りよう (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
この轡虫もいささか声の衰えた場合、従って夜寒も身にむ頃と解していいかも知れない。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
ゆるき扱帶しごきむや、とほやまちかみづ待人まちびときたれ、初雁はつかりわたるなり。
月令十二態 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
三島神社にもうでて昔し千句の連歌ありしことなど思い出だせば有り難さ身にみて神殿の前にひざまずきしばし祈念をぞこらしける。
旅の旅の旅 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
いつも聽き惚れる嬌音は相變らず身にむやうに覺えるが、其上今宵は一種不思議な心持がする。今まではいつも感服して聽き乍らも心の底に何やら不滿足な塊があつた。
俳諧師 (旧字旧仮名) / 高浜虚子(著)
身にむということは、俳句では秋の季になっている。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
われが三つの時、母はわれをつれて十町ばかり隔りたる実家に行きしが、一夜はそこに宿らんとてやや寐入りし頃、ほうほうと呼びて外を通る声身にみて夢めたり。
わが幼時の美感 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
さて仙台駅に下車して見ると、それは広い停車場ではあったが、何処どことなくガランとしていて、まだ九月の初めであるというのに秋風らしい風が単衣の重ね着の肌にみた。
子規居士と余 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
三藏は『外は十夜の人通り』といふ紙治の文句を讀んだ時の心持が思ひ出されて身にみる。其人通りの中にちらと又さきのやうな舞子の姿が認められる。箱屋を連れた一人の藝者が横町に曲る。
俳諧師 (旧字旧仮名) / 高浜虚子(著)
身にむや亡妻なきつまくしねやに踏む
俳人蕪村 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
身にむや亡妻なきつまくしねや
俳人蕪村 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
身にみて身の上話花火の夜
六百五十句 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)