赤穂あこう)” の例文
旧字:赤穗
西片上にしかたがみまで来て、さきに別れた本軍と合し、一方は船坂越えから姫路へ急行したが、秀吉はそこのけんを避けて船で赤穂あこうへ上陸した。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
仮令たとい議論をすればとて面白い議論のみをして、例えば赤穂あこう義士の問題が出て、義士は果して義士なるか不義士なるかと議論が始まる。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
のちの赤穂あこう浪士快挙に男を売った天野屋利兵衛あまのやりへえの例を引くまでもなく、ややもするとこの種の武士表道具に関する探索詮議せんぎには
今では雨乞いとは関係がないようですが、この井戸もいかなるひでりでもれることがないといっております。(赤穂あこう郡誌。兵庫県赤穂郡船阪村高山)
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
播州の赤穂あこうは四十七士の物語で誰も想い起す所でありますが、また「赤穂緞通あこうだんつう」でもその名が知られます。惜しいかな、仕事は過去のものとなってしまいました。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
南京にいるわが駆逐艦は名も勇ましい『旗風はたかぜ』だ。艦長はたちばな少佐、播州ばんしゅう赤穂あこうに生まれた快男児である。
昭和遊撃隊 (新字新仮名) / 平田晋策(著)
赤穂あこうの城を退去して以来、二年に近い月日を、如何いかに彼は焦慮と画策かくさくとのうちに、ついやした事であろう。
或日の大石内蔵助 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
貧乏してまでも同志を欺く苦肉のはかりごとをしておかみの御用を勤めていたというなら、それこそ楠正成くすのきまさしげほどでなくとも赤穂あこうの義士ぐらいに値踏み出来る国家の功労者である。
最後の大杉 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
敵討ち全盛の時代であってみれば一朝にして禄をはなれた赤穂あこうの浪人たちが、お家断絶、一族離散の恨みを上野介の一身に向って集中しつつあることは疑うべくもない。
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
その後赤穂あこう城中における評議が籠城ろうじょう殉死じゅんしから一転して、異議なく開城、そのじつ仇討あだうちときまった際は、彼はまだ江戸に居残っていたので、最初の連判状には名を列しなかった。
四十八人目 (新字新仮名) / 森田草平(著)
第二のクライマックスは赤穂あこう城内で血盟の後復讐ふくしゅうの真意を明かすところである。
映画雑感(Ⅲ) (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
わしたちの兵馬は、西片上の浜べから、船へ移って、赤穂あこうに上陸し、七日の午頃、姫路城へ行き着いた。
茶漬三略 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
昔、徳川の時代に、浅野家の家来、主人の敵討ちとて吉良上野介きらこうずけのすけを殺したることあり。世にこれを赤穂あこうの義士と唱えり。大なる間違いならずや。この時日本の政府は徳川なり。
学問のすすめ (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
兵庫県赤穂あこう
こども風土記 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
九十の母から、いまもって、あの子はあの子はと呼ばれている丹女の良人は——小野寺十内といい、赤穂あこうの臣で百五十石、現職は京都留守役、年はことし五十九であった。
『夜でも、昼でも、雨や風でも、一刻も休まずに肩継かたつぎいたせ。——播州ばんしゅう赤穂あこうの城下まで』
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
赤穂あこうの浜も、今頃は、さだめし汐干しおひや船遊びに、賑うて居るであろ』
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
赤穂あこうも、今年は降ったかな」
べんがら炬燵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)