落寞らくばく)” の例文
今日きょうはお嬢さんが上野の音楽会へ出かけて、一日お留守だった。お嬢さんが居ないと、己は非常にさびしい。まるで家のうち落寞らくばくとする。
小僧の夢 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
実際の失恋でもない、いはんや得恋でもない、はゞ無恋の心もちが、一番悲惨な心持なんだ。此の落寞らくばくたる心持が、俺にはたまらなかつたんだ。
良友悪友 (新字旧仮名) / 久米正雄(著)
然りと雖も人老ゆるに及んで身世しんせい漸く落寞らくばくの思いに堪えず壮時を追懐して覚えず昨是今非さくぜこんひの嘆を漏らす。蓋し自然の人情怪しむに足らざるなり。
偏奇館漫録 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
そこからは落寞らくばくたる歓楽の絃歌げんかが聞こえ、干からびた寂しい笑い声がにぎやかにもれて来る。——それは普通オランダ屋敷と呼ばれている「出島の蘭館らんかん」である。
秋風落寞らくばく、門を出れば我れもまた落葉の如く、風に吹かれる人生の漂泊者に過ぎない。たまたま行路こうろに逢う知人の顔にも、生活の寂しさが暗く漂っているのである。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
この桟橋のわかれには何となく落寞らくばくの感があった。病み衰えた勝三郎はついに男名取総員の和熟を見るに及ばずして東京を去った。そしてそれが再び帰らぬ旅路であった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
落寞らくばくたる冷たいこの部屋の中が温かい住心地のよい所に思われた。K君も時々覗きに来たがこの人の堅い顔が少し赤味を帯びてたいそう柔らかにあるいはむしろ愉快そうにも見えた。
病中記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
かくて、浅草は落寞らくばくたる年の瀬を越し、淋しい初春を迎えたことであった。
東京駅外が落寞らくばくとしているのもこれ等が重な原因である。
丸の内 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
広巳の眼の前には落寞らくばくとした世界がひろがっていた。
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
落寞らくばくとした甲山こうざんの秋よ、蕭々しょうしょうとした笛吹川ふえふきがわの秋よ。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
例えばこの句の場合で、「酒屋」とか「うた」とかいう言葉を使えば、句の情趣が現実的の写生になって、句のモチーヴである秋風しゅうふう落寞らくばくの強い詩的感銘が弱って来る。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
満池まんちの敗荷はちょうど自分の別れを送る音楽の如く、荒涼落寞らくばくの曲をかなではじめる。
曇天 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
落寞らくばくとして、さびしげなものがあった。
剣の四君子:02 柳生石舟斎 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
落寞らくばくたる夜風がふたりを払ってゆく。
鳴門秘帖:06 鳴門の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)