尊良たかなが)” の例文
まもなく、義貞の軍は、尊良たかなが親王の騎馬一群をまん中に迎え入れて、その長蛇ちょうだのながれは、順次、三条口からえんえんと東していた。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その上、為世の女(贈従三位為子いし)は後醍醐天皇の側近に侍し、その腹に尊良たかなが親王・宗良むねなが親王のような英邁えいまいの皇子がお生れになっている。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
皇太子恒良つねなが親王、皇子尊良たかなが親王を奉ぜしめて、北陸経営に当らしめ、又陸奥むつの北畠顕家あきいへを西上せしめて、京都の恢復を計り給うたが、顕家は延元三年五月、摂津の石津いしづで戦死し、新田義貞は
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
尊良たかなが親王様におかせられましては……」
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
かみどう行宮あんぐうは、ご寝所も、常の陣座の間も、まことに手ぜまな所だったが、そこへ御出座あるやいな、尊良たかなが宗良むねながの二皇子へたいして
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼が外祖父である為子腹の尊良たかなが親王も、種々辛酸をめられ、尊氏たかうじが鎌倉に叛したときは、為冬は親王を奉じて討伐に向ったが、箱根竹下で戦歿し、親王は義貞よしさだが奉じて北陸に経略したが
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
尊良たかなが恒良つねなが、成良、義良、宗良、懐良かねながなどの諸皇子たれひとり人生を完うされたお方はない。雑兵に交じって火中を馳け歩いた皇子もある。
美しい日本の歴史 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
つい先ごろ、中務なかつかさみや尊良たかなが四条隆資しじょうたかすけが、二度のみ使としてこの地へくだって来たとき、特に下賜された菊水紋きくすいもんの旗だった。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
すなわちその軍中には、皇太子恒良つねなが、親王尊良たかながのおふたりを奉じ、洞院とういん実世さねよ、同少将定世、三条泰季やすすえなども付きしたがい、総勢は約七千余騎。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
湊川の宿につかせ給ひけるに、中務なかつかさノ宮(尊良たかなが親王)は、昆陽こやの宿におはしますほど、間近く聞き奉らせ給ふも、いみじう哀れにかなし。〔増鏡〕
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一ノ皇子、中務なかつかさノ宮尊良たかながは、みかどがまだ皇太子時代の寵姫ちょうき冷泉為子れいぜいためこのお腹であるが、そのおん母為子は、後醍醐の即位も見ずに亡くなっている。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
……きのう兵庫の浦で、兄宮(尊良たかなが)にお別れした時も、身はズタズタな思いでしたのに、明日は父ぎみとも、このでお別れせねばなりませぬか。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「されば即日、朝廷からは義貞へ、尊氏追討の総大将を任ぜられ、中書ちゅうしょの宮尊良たかながを上に、約三万騎、東海東山の両道から、ぞくぞく東へ下りつつありまする」
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かの土佐に流された一ノ宮尊良たかながや、讃岐へ流された宗良むねながも、ひとつおん母であるから、二皇子のじつの御妹にあたるわけで、その年、十六歳であったという。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そちは恒良つねなが親王しんのう尊良たかながとを陣中に奉じて北国にて再起をはかれ。恒良に仕えることのごとくにしてくれよ。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この大納言(藤原為世)のむすめ、為子の君とて、坊(東宮)のおん時、かぎりなくおぼされたりし御腹に、一ノ御子みこ尊良たかながにょさんノ御子(瓊子たまこ)、法親王(尊澄たかずみ)など、あまたものし給ふ
私本太平記:01 あしかが帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
また中書ちゅうしょノ宮尊良たかなが親王以下、八人の公卿大将がそのうえにいることもわかった。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
瓜生保うりゅうたもつは戦死し、義貞の子義顕よしあきも、尊良たかなが親王も、大勢の味方と共に自刃するなど、いかに苛烈な抗戦であったかは、あとになって、城砦じょうさいに入ってみると、死馬の骨が山とつんであったのでも分った。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一ノ宮尊良たかなが宗良むねながの二皇子は、土佐と讃岐へ流された。
随筆 私本太平記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)