濛靄もや)” の例文
日々に接しているお増夫婦のほしいままな生活すらが、美しい濛靄もやか何ぞのような雰囲気ふんいきのなかに、お今の心をひたしはじめるのであった。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
この北の海にも春らしい紫色の濛靄もやが沖に立ちこめ、日和山の桜のこずえにもつぼみらしいものが芽を吹き、頂上に登ると草餅くさもちを売る茶店もあって
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
濛靄もやのかかったような銀子の目には、誰の顔もはっきりとは見えず、全身薔薇ばらの花だらけの梅村医師の顔だけが大写しに写し出されていた。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
紙片かみきれ、莨の吸殻などの落ち散った汚い地面はまだしっとりして、木立ちや建物に淡い濛靄もやがかかり、はとき声が湿気のある空気にポッポッと聞えた。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
お庄は広々した静かな眼鏡橋めがねばしの袂へ出て来た。水の黝んだ川岸や向うの広い通りには淡い濛靄もやがかかって、蒼白い街燈の蔭に、車夫くるまやの暗い看板が幾個いくつも並んでいた。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
白粉おしろいのはげかかった顔を洗いなどしてから、裏の田圃道たんぼみちまで出て来たが、濛靄もやの深い木立際こだちぎわの農家の土間から、かまの下をきつける火の影が、ちょろちょろ見えたり
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
河の氷がようやく崩れはじめ、大洋の果てに薄紫の濛靄もやけぶるころ、銀子はよその家の三四人と、廻船問屋かいせんどんや筋の旦那衆だんなしゅうにつれられて、塩釜しおがま参詣さんけいしたことがあった。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
坂の上へあがると、煙突やの影の多い広い東京市中が、海のような濛靄もやの中に果てもなく拡がって見えたり、狭いごちゃごちゃした街が、幾個いくつも幾個も続いたりした。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
その晩は月は何処のもりにも見えなかった。深くすみわたった大気の底に、銀梨地ぎんなしじのような星影がちらちらして、水藻みずものようなあお濛靄もやが、一面に地上からはいのぼっていた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
朝はやく、彼女はひとりでそこへ乗出して行くほど、手があがって来た。そして濛靄もやの顔にかかるような木蔭を、そっちこっち乗りまわした。秋らしい風が裾にはらんで、草の実が淡青くしろについた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
濛靄もやのかかった長い土手を白髯橋しらひげばしまでドライブして、ここで泊まったことがあったが、怪談物の芝居にあるような、天井の低い、いぶしのかかった薄暗い部屋で、葉子はわざと顔一杯に髪を振り乱して
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)