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清涼殿
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せいりょうでん
ふりがな文庫
“
清涼殿
(
せいりょうでん
)” の例文
しかしそれらのなかで最も深く教授を感激させたのは、京都の
仙洞御所
(
せんとうごしょ
)
のなかで
清涼殿
(
せいりょうでん
)
の前庭をかこんだ一帯の風趣であったのです。
アインシュタイン教授をわが国に迎えて
(新字新仮名)
/
石原純
(著)
もとよりここは花山院の
今内裏
(
いまだいり
)
(仮の皇居)だが、天皇のおわすところ、どこでもそこを
清涼殿
(
せいりょうでん
)
と呼ぶのが
慣
(
なら
)
わしなのである。
私本太平記:10 風花帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
紫宸殿
(
ししんでん
)
・
清涼殿
(
せいりょうでん
)
の
御座所
(
ござしょ
)
で政治をおとり遊ばされたのを、文武百官は、まことに賢明な天子であると、その仰せをおそれかしこんでお仕え申しあげたものである。
雨月物語:02 現代語訳 雨月物語
(新字新仮名)
/
上田秋成
(著)
その霊が化して雷神となって朝臣に
讐
(
あだ
)
をすると信ぜられていた時分、或る日
清涼殿
(
せいりょうでん
)
に落雷して満廷の
公卿
(
くげ
)
たちが顔色を失った折に、時平は
凜然
(
りんぜん
)
と
太刀
(
たち
)
を引き抜いて大空を
睨
(
にら
)
み
少将滋幹の母
(新字新仮名)
/
谷崎潤一郎
(著)
それは
清涼殿
(
せいりょうでん
)
のことで、西の後涼殿の縁には殿上役人が左右に思い思いの味方をしてすわっていた。左の
紫檀
(
したん
)
の箱に
蘇枋
(
すおう
)
の木の飾り台、敷き物は紫地の
唐錦
(
からにしき
)
、
帛紗
(
ふくさ
)
は赤紫の唐錦である。
源氏物語:17 絵合
(新字新仮名)
/
紫式部
(著)
▼ もっと見る
清涼殿
(
せいりょうでん
)
の春の
夜
(
よ
)
の
若菜集
(新字旧仮名)
/
島崎藤村
(著)
ここ、あらゆる行事や
行幸
(
いでまし
)
も見あわせられて、夜の
御殿
(
みとの
)
も、昼の
御座
(
ぎょざ
)
も、
清涼殿
(
せいりょうでん
)
いったいは巨大な
氷室
(
ひむろ
)
と
異
(
ことな
)
らなかった。
私本太平記:03 みなかみ帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
更衣が心をめいらせているのを御覧になると帝はいっそう
憐
(
あわ
)
れを多くお加えになって、
清涼殿
(
せいりょうでん
)
に続いた
後涼殿
(
こうりょうでん
)
に住んでいた更衣をほかへお移しになって桐壺の更衣へ休息室としてお与えになった。
源氏物語:01 桐壺
(新字新仮名)
/
紫式部
(著)
鎌倉殿から格別なお扱いをいただいて、三百ぢかい
手下
(
てか
)
をバラ撒き、宮中なら
御息所
(
みやすんどころ
)
の床下から、
清涼殿
(
せいりょうでん
)
の
梁
(
うつばり
)
の数まで読みそらんじている
別拵
(
べつごしら
)
えな人間様だぞ。
私本太平記:02 婆娑羅帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
と返歌を奏上してから大臣は、
清涼殿
(
せいりょうでん
)
の正面の
階段
(
きざはし
)
を下がって拝礼をした。
左馬寮
(
さまりょう
)
の御馬と
蔵人所
(
くろうどどころ
)
の
鷹
(
たか
)
をその時に賜わった。そのあとで諸員が階前に出て、官等に従ってそれぞれの下賜品を得た。
源氏物語:01 桐壺
(新字新仮名)
/
紫式部
(著)
そこからは、いわゆる
殿上
(
てんじょう
)
で、
清涼殿
(
せいりょうでん
)
の南の
廂
(
ひさし
)
にあたるところである。
私本太平記:09 建武らくがき帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
“清涼殿”の解説
清涼殿(せいりょうでん)とは、平安京の内裏における殿舎のひとつ。仁寿殿の西、後涼殿の東。
(出典:Wikipedia)
清
常用漢字
小4
部首:⽔
11画
涼
常用漢字
中学
部首:⽔
11画
殿
常用漢字
中学
部首:⽎
13画
“清涼”で始まる語句
清涼
清涼剤
清涼寺
清涼薬
清涼院
清涼丹
清涼劑
清涼尼
清涼山
清涼池