トップ
>
延元
>
えんげん
ふりがな文庫
“
延元
(
えんげん
)” の例文
懐良王は、
後醍醐
(
ごだいご
)
帝の皇子、
延元
(
えんげん
)
三年、征西大将軍に任じ、
筑紫
(
つくし
)
を
鎮撫
(
ちんぶ
)
す。
菊池武光
(
きくちたけみつ
)
等
(
ら
)
之
(
これ
)
に従い、
興国
(
こうこく
)
より
正平
(
しょうへい
)
に及び、勢威
大
(
おおい
)
に張る。
運命
(新字新仮名)
/
幸田露伴
(著)
ただ暗い冬の夜と、寒々しい枯野のなかを、湊川の水音は
淙々
(
そうそう
)
とすぐそこに聞える。——
建武
(
けんむ
)
、
延元
(
えんげん
)
の
雄
(
お
)
たけびを思わすような風の声もして。
梅里先生行状記
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
尊氏、直義その後を追うて、西上するや、建武の功臣たる赤松
則村
(
のりむら
)
など、官軍に叛いて尊氏に応じ、東西から京都に迫つたので、天皇は
延元
(
えんげん
)
元年正月一日、難を比叡山に避け給うた。
二千六百年史抄
(新字旧仮名)
/
菊池寛
(著)
後醍醐
(
ごだいご
)
天皇の
延元
(
えんげん
)
元年以来五十余年で
廃絶
(
はいぜつ
)
したとなっているけれども、そののち
嘉吉
(
かきつ
)
三年九月二十三日の
夜半
(
やはん
)
、
楠
(
くすのき
)
二郎正秀と云う者が
大覚寺統
(
だいかくじとう
)
の親王
万寿寺宮
(
まんじゅじのみや
)
を
奉
(
ほう
)
じて、急に
土御門
(
つちみかど
)
内裏
(
だいり
)
を
襲
(
おそ
)
い
吉野葛
(新字新仮名)
/
谷崎潤一郎
(著)
いまは神戸市街のまン中であり、造船所やら
埠頭
(
ふとう
)
であるが、現実の近代景を拭って、これを
延元
(
えんげん
)
二年の、湊川合戦の当時におきかえて見ていると、じつにいろんな感が湧く。
随筆 私本太平記
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
▼ もっと見る
だがそれは後世には、北朝側の年号とされ、後には同じ年を、
延元
(
えんげん
)
元年とも併称された。
私本太平記:10 風花帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
尼
(
あま
)
ヶ
崎
(
さき
)
の城主
青山家
(
あおやまけ
)
の領内で、
兵庫
(
ひょうご
)
の
坂本村
(
さかもとむら
)
の
畠地
(
はたち
)
であるが、すぐ西南四、五町ほどさきに、
湊川
(
みなとがわ
)
の流れがあり、遠く
延元
(
えんげん
)
元年五月の
楠木
(
くすのき
)
、
足利
(
あしかが
)
両氏の古戦場としても知れているので
梅里先生行状記
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
「もしかしたら、
延元
(
えんげん
)
の
戦
(
いくさ
)
に、ここで死んだ忠義なひとの兜かもしれない……」
梅里先生行状記
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
末子の
朝成
(
ともしげ
)
を生んだ翌年。
延元
(
えんげん
)
の元年五月。
日本名婦伝:大楠公夫人
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
南朝では、
延元
(
えんげん
)
二年
私本太平記:13 黒白帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
延元
(
えんげん
)
私本太平記:11 筑紫帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
延元
(
えんげん
)
私本太平記:10 風花帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
“延元”の意味
《固有名詞》
日本の元号の一つ。南北朝時代の南朝で用いられた。建武の後、興国の前。1336年2月29日から1340年4月28日までの期間のこと。
(出典:Wiktionary)
“延元”の解説
延元 (えんげん、延󠄂元)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方で使用された。建武の後、興国の前。1336年から1340年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。
(出典:Wikipedia)
延
常用漢字
小6
部首:⼵
8画
元
常用漢字
小2
部首:⼉
4画
“延”で始まる語句
延
延喜
延々
延喜式
延暦寺
延引
延宝
延享
延金
延棒