宗祇そうぎ)” の例文
中世盛んに流行した歌問答の昔話にも、西行さいぎょうとか宗祇そうぎとかいう旅の歌人が、摂津せっつの鼓の滝に来て一首の歌を詠んだ話がある。
素性の明らかでない連歌師宗祇そうぎであるが、こうした東常縁の目の動き方といい、宗祇の世なれた商売人気質かたぎといい、これもすべて公家の間のものではない。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
この庵の創始者の宗長そうちょうは、連歌は宗祇そうぎの弟子で禅は一休に学んだというが、連歌師としての方が有名である。
東海道五十三次 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
宗祇そうぎ、宗長、宗牧、里村元祖昌休しやうきう紹巴せうは、里村二代昌叱しやうしつ、三代昌琢しやうたく、四代昌程、弟祖白、五代昌陸、六代昌億、七代昌迪しやうてき、八代昌桂、九代昌逸、十代昌同」
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
たとえば芭蕉ばしょうの思想も、突として芭蕉にはじまったものではなくて、既に何百年か前の、連歌の宗祇そうぎの思想に根ざしている。否々いないな、その思想は古き仏教の思想である。
俳句への道 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
殿上に桐火桶きりびおけすだれを隔てて世俗に対したのでは俳人芭蕉は大成されなかったに相違ない。連歌と俳諧の分水嶺ぶんすいれいに立った宗祇そうぎがまた行脚あんぎゃの人であったことも意味の深い事実である。
俳諧の本質的概論 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
藤村も宗祇そうぎや芭蕉と同じように自庵では死なないで、ずっと広い世界にはてしない旅をつづけている、死んで永遠に生きるのである。それをおもえばよい死かたをしたものと、うらやましくもある。
わけて里村紹巴は、宗祇そうぎ、宗長以来の聞えを当代に持っている者で、信長にも愛せられ、秀吉とも親しく、茶道では堺の宗易とは昵懇じっこんだし、顔のひろいことにおいては、無類の社交人でもある。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
雨晴れて花に色そふ夕かな 宗祇そうぎ
古池の句の弁 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
連歌全盛時代の宗祇そうぎ兼載けんさいの頃から、受け継いでいた俳諧師の学問というものは、近世の俳人ともまただいぶちがっている。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
西行さいぎょう法師や連歌師の宗祇そうぎの跡をしたって、生涯を笠や草鞋に托することがその希望であったのであるが、また無妻で無一物で孤独の生活をしておる芭蕉の如き人に在っては
俳句はかく解しかく味う (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
その後千葉氏の内乱のため東荘へ下ったりしている頃尭孝・正徹ともに世を去り、その後応仁乱(六十七歳)の始まるまで十数年はその円熟の時代である。門人に有名な連歌師宗祇そうぎができた。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
あるいは見物の方がはなはだしく無我で、聞きしにまさるなどと感歎することがあっても、それはただ西行さいぎょう宗祇そうぎ・山陽・拙堂せつどうなどの、従順なる信者というにすぎぬ。
雪国の春 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
古来幾多の世捨人よすてびとは人間の死ということに心を置いて、樹下石上の旅にさまようた。西行さいぎょう宗祇そうぎ芭蕉ばしょうもまたそれら世捨人のあとをしとうて旅にさまようた。そうして宗祇も芭蕉も旅に死んだ。
俳句への道 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
そのためには谷奥の山村は誠に重要であった。関所のある峠は勿論のこと、関はなくても難所と聞いては、西行さいぎょう宗祇そうぎ此処ここへ来て一宿したからである。しかるに新道が開けるとその村は不用になる。
峠に関する二、三の考察 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
芭蕉忌や遠く宗祇そうぎさかのぼ
五百五十句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)