太秦うずまさ)” の例文
鶴見は、そこに、はからずも、しこげな御影ぎょえいを仰ぎ見たのである。太秦うずまさ広隆寺の桂宮院けいきゅういんに納めてある太子の御尊像そっくりであった。
「暮れて帰れば春の月」と蕪村ぶそんの時代は詩趣満々ししゅまんまんであった太秦うずまさを通って帰る車の上に、余は満腔まんこうの不平をく所なきに悶々もんもんした。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
公卿たちの宿泊所も急のこととてないので、八幡、賀茂、嵯峨さが太秦うずまさ、西山、東山などにゆき、御堂の廻廊や神社の拝殿などに泊っていた。
また太秦うずまさ広隆寺の同じ形式の像も、寺の旧記には弥勒菩薩とあるそうで、中宮寺のこの本尊もしたがって同じ名で呼ばれはじめているようだ。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
昭和十四年六月、今は故人になった曲芸師の助次郎君と二人、京都太秦うずまさ撮影所の成瀬己喜男監督の『風流浮世床』という映画の出演を頼まれた。
江戸前の釣り (新字新仮名) / 三遊亭金馬(著)
ここは京都の郊外の、上嵯峨かみさがへ通う野路である。御室おむろ仁和寺にんなじは北に見え、妙心寺みょうしんじは東に見えている。野路を西へ辿ったならば、太秦うずまさの村へ行けるであろう。
血ぬられた懐刀 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
なお深草の長者太秦うずまさ王の次女の朝霞子あかこを豊饒な山城十二ヶ所の持参金つきで内室に入れるなど、ようやく三十になったばかりで、藤原一門でも指折りの物持になり
無月物語 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
晩秋の一日、女は珍らしく思い立って、太秦うずまさへ父の無事を祈りに、ひとりで女車に乗って出掛けた。
姨捨 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
一つは京都太秦うずまさの広隆寺の、胴体の細い弥勒像に似たものであり、もう一つはこの如意輪観音にょいりんかんのんに似たものである。いずれも朝鮮現存の遺品のうちの最も優れたものである。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
それには嵐山を望む大堰川おおいがわから太秦うずまさのあたりまでをふくむ亀山上皇の離宮のあとがある。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その頃の京都の西の郊外は東の方よりも一層人家がまばらであつて、千本通りも四条辺から南は全く片側町であり、西はげんげと菜の花の咲き乱れた野がずつと太秦うずまさから嵯峨の方までつゞいてゐた。
青春物語:02 青春物語 (新字旧仮名) / 谷崎潤一郎(著)
当時を回想する余の眼の前にはたちまち太秦うずまさあたりの光景が画の如くに浮ぶ。何でも二人は京都の市街を歩いている時分からこの辺に来るまで殆ど何物も目に入らぬようにただ熱心に語り続けていた。
子規居士と余 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
女院や宮々も八幡やわた、賀茂、嵯峨さが太秦うずまさ西山にしやま、東山などの片田舎に難を逃れている。平家一門は都より落ちたが、源氏はまだ京に入っていない。京は主のない都となった。
深草の長者太秦うずまさ王の次女の朝霞子あかこを豊饒な山城十二ヵ荘の持参金つきで内室に入れるなど、三十になったばかりで藤原一門でも指折りの物持になり、白川のほとりなる方一町の地幅に
無月物語 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
(ありゃア松浦勘解由かげゆせがれだ。わずかの意趣から太秦うずまさの野道で、その勘解由を討って取り、爾来自分でも世を狭めていたが、こんな江戸の地でその勘解由の忰の、民弥に逢おうとは思わなかった)
猫の蚤とり武士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
これは高麗こまの帰化人であるところの、背奈氏せなしと合してその土地に住み、他の一派は京都洛外の、太秦うずまさ辺に住居して秦氏はたしの一族と合体したりしたが、宗家は代々摂津せっつ和泉いずみ河内かわち、この三国に潜在して
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
と一日一僕を従え、勘解由は太秦うずまさへ秋景色を見に出た。
猫の蚤とり武士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)