壬申じんしん)” の例文
上宮王家滅びて三十余年にして壬申じんしんの乱起り、漸く平定した後の奈良朝時代には、蘇我に代って藤原一族の擅権がはじまっている。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
宝暦十二年壬申じんしん三月十一日越後国新潟に生れその地の儒医高田仁庵につきて詩書を学び、少壮江戸に出で亀田鵬斎かめだほうさいの門に入った。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
十市皇女は天武天皇の皇長女、御母は額田女王ぬかだのおおきみ、弘文天皇の妃であったが、壬申じんしんの戦後、明日香清御原あすかのきよみはらの宮(天武天皇の宮殿)に帰って居られた。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
壬申じんしんの変をなした人は、大海人である。しかしながら、この乱のもとをつくった人は、天智である。天智がこの乱のもとをひらいた原因は、皇子大友を
しかしその文によると、この家の祖先は奈良朝以前からこの地に住し、壬申じんしんの乱には村国庄司男依むらくにのしょうじおよりなる者天武帝のお味方を申して大友皇子おおとものみこたてまつった。
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
天武帝は壬申じんしんらんを通じて即位せられたために、古来史家の間にさまざまの論議をひき起こしてはいるが、われわれにとっては他の意味で興味の深い代表的人物である。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
壬申じんしんの日、王、やまいえぬと称し、東殿とうでんに出で、官僚の賀を受け、人をして昺と貴とを召さしむ。二人応ぜず。また内官をつかわして、とらわるべき者を交付するを装う。二人すなわち至る。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
ところが、白鳳壬申じんしんの秋の不破の関の悲劇は、その恨みが綿々として千古に尽きない。
大菩薩峠:33 不破の関の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
壬申じんしんノ乱の大海人おおしあま皇子みこ軍。木曾義仲の寿永じゅえいの都入り。承久じょうきゅうらんの北条勢と朝廷がた
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
吉野上市かみいち井光いひかりとか、磐排分いわおしわけの子などという土人の酋長おさが、お従いしたものでございまするし、壬申じんしんの乱のみぎりには、吉野を出られました大海人おおあま皇子みこ、天武の帝でございまするが
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
私は飛鳥より大化改新を経て壬申じんしんの乱にいたる暗澹あんたんたる時代を顧み、その頃の人のひそかな祈念と憧憬どうけいをこのみ仏に思わないわけにゆかなかった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
嚶鳴館至日ノ宴ハ宝暦壬申じんしん(二年)ヨリ文化丙子(十三年)ニ至ルマデおよそ六十五年也。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
が、さらに著しいのは天智てんじ天皇崩御後における壬申じんしんの乱において、身分の低い舎人とねりや地方官をのみ味方とする天武天皇の軍が、大将軍大貴族の集団たる朝廷方を粉砕したことである。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
申すも恐れ多いことでございますが、壬申じんしんの昔……
大菩薩峠:33 不破の関の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
また高市皇子尊たけちのみこのみことの城上の殯宮ひんきゅうの時にめる柿本人麻呂かきのもとのひとまろの長歌(万葉集巻二)によって更に有名であろう。けだ壬申じんしんの乱は、わが国史において未曾有の異変だった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)