口腔こうこう)” の例文
夜来の烈しい血しおのうごきが、自然、口腔こうこうかわかせて来るのであろう。彼はさっきから頻りに一杯の水を欲しがっていたのである。
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
舌の先でさわってみると、そこにできた空虚な空間が、自分の口腔こうこう全体に対して異常に大きく、不合理にだだっ広いもののように思われた。
柿の種 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
津村も私も、歯ぐきからはらわたの底へとおめたさを喜びつつ甘いねばっこい柹の実をむさぼるように二つまで食べた。私は自分の口腔こうこうに吉野の秋を一杯いっぱい頬張ほおばった。
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
口腔こうこうの中が乾いて行くような不快な気持がそれにまじっていた。宇治は思わず視線を隊長の顔に定めたが、火影を背にした隊長の顔はただ暗くよどんでいるばかりであった。
日の果て (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
物憎いことには、あとの口腔こうこうに淡い苦味が二日月ふつかづきの影のようにほのかにとどまったことだ。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
いろいろな食物から発する臭気やたばこの煙や不潔な身体からだから発する熱気が混合して一種のにごった空気となり、人間の鼻穴や口腔こうこうから侵入するために、大抵たいていの人はのどの渇きを感ずる
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
たばこの煙は、口腔こうこうのなかでしばらくねまわされた。しぶい、あまい味が口うら一ぱいに浸みわたった。吸殻をこつンと灰吹きにたたいた。やにのついた竹づつからほそい煙がすッとのぼった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
自分の知っている老人で七十余歳になってもほとんど完全に自分の歯を保有している人があるかと思うと四十歳で思い切りよく口腔こうこうの中を丸裸にしている人もある。
自由画稿 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
真赤なうりを割いたような綺羅子の可愛い口腔こうこうの中に、その種子のように生えそろっていたことです。
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
九叔は馴れた手つきで、物質の検査でもするように、死骸の眼瞼がんけん口腔こうこう、鼻腔の奥、腹部、背部と引っくり返してていたが、そのうちに自分のこめかみを抑え出して
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
鳥の鼻に嗅覚はないが口腔こうこうが嗅覚に代わる官能をすることがあるとある書に見えているが、もしも香を含んだ気流が強くくちばしに当たっている際にくちばしを開きでもすれば
とんびと油揚 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
分厚いくちびるの肉を一層分厚くさせつつ口をOの字に開けて、飯のかたまりを少しずつ口腔こうこうへ送り込みながら、お春に茶飲み茶碗ぢゃわんを持たせて、一と口食べてはお茶をすすっているのであった。
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
それを食道と並べて口腔こうこうに導き、そうして舌や歯に二役ふたやく掛け持ちをさせているのである。
自由画稿 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
彼女のような妖婦ようふになると、内臓までも普通の女と違っているのじゃないか知らん、だから彼女の体内を通って、その口腔こうこうに含まれた空気は、こんななまめかしいにおいがするのじゃないか知らん、と
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
その音源はお園からは十メートル近くも離れた上手かみて太夫たゆう咽喉のど口腔こうこうにあるのであるが、人形の簡単なしかし必然的な姿態の吸引作用で、この音源が空中を飛躍して人形の口へ乗り移るのである。
生ける人形 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)