信長のぶなが)” の例文
まずちょっとおもいだしたところでも、春早々そうそう甲斐かい武田たけだほろぼされ、六月には、信長のぶなが本能寺ほんのうじ焼打やきうちにあった。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
信長のぶながの時になると、もう信長は臣下の手柄勲功を高慢税額に引直ひきなおして、いわゆる骨董を有難く頂戴させている。
骨董 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
一時いっときはほんに日本全国上下をあげてなびいたくらいえらい勢いじゃったもんじゃ。信長のぶながが本能寺で討たれたころにゃ三十万からの生粋きっすいの信者がおったそうな。
いまや信長のぶながは非常に果報にめぐまれた大将である。われ平生彼をあなどって征伐することを
また信長のぶなが寡兵かへいとくして桶狭間おけはざまに突進するに先だち、いかほど心を労したろう。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
こうして魔神宗介様は多数の眷族けんぞくを従えられ、いよいよ益〻ますます人間に向かって惨害をお下しなされるうち、世はややおさまって信長のぶなが時代となりさらに豊臣とよとみ時代となりとうとう徳川時代となった。
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
明治以後の日本人は、「信長のぶながが、皇居を造営した」ということをとらえて、一大忠臣のように賞めたてている。明治三年、明治政府は、みずから「建勲神社」の賛辞を信長のびょうにささげたのである。
信長のぶながの子、織田城之助おだじょうのすけは、小山田おやまだを見るよりその不忠不人情を罵倒ばとうして、褒美ほうびはこれぞと、陣刀じんとうせんのもとに首を討ちおとした。——そういう例もある。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
で、いまではこの安土城あづちじょうのあとへ、信長のぶなが嫡孫ちゃくそん、三法師ぼうしまる清洲きよすからうつされてきて、焼けのこりの本丸ほんまるを修理し、故右大臣家こうだいじんけ跡目あとめをうけついでいる。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「十二の時から、信長のぶなが様の大奥に、女童めわらべとして、おつかえして、秀吉様とも、小牧こまきでお目にかかる前から存じ上げておりました。……ここでまた、先生にお目にかかるとは、ほんに奇縁きえんでございまする」
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
傅役もりやく小野角右衛門おのかくえもんが、信長のぶなが傅役もりやく平手中務ひらてなかつかさ忠諫ちゅうかんにならって
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ぜに信長のぶなが
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ちち信長のぶなが
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
信長のぶなが
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)