伯耆守ほうきのかみ)” の例文
また法皇勢のうち、近江中将為清、越前少将信行、伯耆守ほうきのかみ光綱、その子の伯耆判官光経も義仲の武士たちに射落され首を討たれた。
火急、お訴えの事あって、大目附たる伯耆守ほうきのかみ様までまかり出ました。何とぞ、伯耆守様直々じきじきに、お聴取り下さるよう、お取次を願いまする
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
父の秋山伯耆守ほうきのかみが侍大将として御しゅくん勝頼公の御寵愛人だったのとで、ほかの娘たちからは驕慢きょうまんのようにみられていた。
石ころ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
この明石の源内武者定明という者は、伯耆守ほうきのかみ源長明という者の嫡男で堀川院御在位の時の滝口たきぐちの武者であったが、ここの預り処へ廻されて来たものである。
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
越後国蒲原郡新発田かんばらごおりしばたの城主、溝口伯耆守ほうきのかみの家来、鈴木忠次郎、忠三郎の兄弟は、敵討の旅に出てから、八年ぶりに、親の敵和田直之進が、京師室町四条上るに、児医師こどもいしの看板を掲げて
仇討三態 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
伯耆守ほうきのかみこそ、自分の心を知る者であり、またよくこの使いを果たす者として、家康は、特に、云いふくめている容子ようすだった。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ここには七日まえから美作みまさかのくに津山で十八万六千石、森伯耆守ほうきのかみの江戸邸の家臣が十七人泊っている。
若殿女難記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
血はこおッてしまっている。うつろな眸が三名の将をあおに見た。その顔に覚えはある。——中院ノ中将定平、結城ノ判官親光、伯耆守ほうきのかみ長年なのだ。
富田流とだりゅうの刀法を鐘巻自斎かねまきじさいにうけ、居合いあいを吉川家の食客片山伯耆守ほうきのかみ久安から皆伝かいでんされ、それにも甘んじないで自ら巌流がんりゅうという一流を立てたほどの者で
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「——信州、深志ふかしの城に入れ置かれました小笠原貞慶さだよしも、伯耆守ほうきのかみの出奔と同時に、妻子眷族けんぞくを連れて、大坂表へ、落ちのびて行った由にござります」
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
池田惣三郎殿 同紀伊守殿 同三右衛門殿 堀久太郎殿 惟任日向守これとうひゅうがのかみ殿 細川刑部大輔ぎょうぶたゆう殿 中川瀬兵衛殿 高山右近殿 安部仁右衛門殿 塩川伯耆守ほうきのかみ殿
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
敵地へふかくはいって、ただ一人で敵の勇将坪坂伯耆守ほうきのかみを、鉄砲で狙撃して帰って来たことも、戦後、確認された。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「忘恩の伯耆守ほうきのかみも、大坂方へ属してみたら、後には、元の巣をおもい出して、ほぞを噛む日がございましょう」
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
関口越中守、富永伯耆守ほうきのかみなど、今川軍の名だたる猛将も、それぞれ恥かしくない死に方であった。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
習いました。また、郷里岩国の隠士で片山伯耆守ほうきのかみ久安なる老人から、片山の居合を授けられ、かたがた、岩国川のほとりに出ては、燕を斬って、自得するところがございました
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
わけて、吉川きっかわ藩お客分片山伯耆守ほうきのかみ久安様など、御門下衆を大勢連れ、小倉表まで立たれるそうな
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼もまた流浪るろうして、伯耆国ほうきのくにの横田内膳ないぜん飯山いいやま城に身をよせていたが、偶〻たまたま、その内膳は、主筋にあたる中村伯耆守ほうきのかみに殺害され、飯山城は伯耆守の手勢にとり囲まれるところとなった。
剣の四君子:02 柳生石舟斎 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
瀬田方面、三千騎 総大将 千種ノ中将忠顕ただあき、名和伯耆守ほうきのかみ長年、結城ゆうきの判官親光
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
八条猪熊いのくまで、名和伯耆守ほうきのかみ長年が斬り死にしたのも、このころである。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)