鹵簿ろぼ)” の例文
鹵簿ろぼは難なく、洛陽へさして進んだ。心ひそかに舌を巻いたのは董卓であった。天性備わる陳留王の威風にふかく胆を奪われて
三国志:02 桃園の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
上野広小路ひろこうじ黒門町のうなぎや大和田おおわだは、祖母に金のことで助けられていたので、その日も私たち子供に、最大公式の鹵簿ろぼを拝観させようと心配してくれた。
家康いえやすは「上を見な」「身のほどを知れ」の「五字七字」を秘伝とまで考えたから、家臣の美服を戒め鹵簿ろぼの倹素を命じた。そこに趣味の相違が現われている。
「いき」の構造 (新字新仮名) / 九鬼周造(著)
抽斎は大名の行列をることを喜んだ。そして家々の鹵簿ろぼを記憶して忘れなかった。「新武鑑」を買って、その図に着色して自らたのしんだのも、これがためである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
明治十一年——明治天皇が北国御巡幸ほつこくごじゆんかうの際、九月三十日午前十一時五十分、鹵簿ろぼ粛々として東水橋町に御着輦ごちやくれんになり、慮瀬といふ旧家に御座所を設けたが、その時の行列は八百三十五人
念仏の家 (新字旧仮名) / 小寺菊子(著)
曰く〈ここにおいて忠広荘内に百石を給い(その子)光正を飛騨に幽し餼廩きりん百人口を給う、使者本門寺に往き教を伝う、忠広命を聴き侍臣に命じて鹵簿ろぼ中の槍を取り、これを使者に示して曰く
後、緯が二十五になって、進士に挙げられ、行人の官になって、命を奉じて西岳華山の神を祭りに往ったが、華陰かいんにかかると、輿こしに乗って羽傘はねがさをさしかけて往く一行が鹵簿ろぼに衝っかかってきた。
陸判 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
鹵簿ろぼ還幸かんこうには、全山お名残りを惜しんで、聖武の帝のいにしえもかくやと、みな申しはやしたものでしたが……今、やつれ輿ごしにて、ここへ御避難あらせ給うと聞くや
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして意外にも、わずかに二歳であった保さんが、父に「武鑑」をもらってもてあそんだということを聞いた。それは出雲寺板いずもじばんの「大名だいみょう武鑑」で、鹵簿ろぼの道具類に彩色を施したものであったそうである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
西の宮から先、鹵簿ろぼは、正成以下の畿内きないの兵数千が露ばらいして進み、六月五日の夕、東寺とうじに着いた。
だかられの凱旋の鹵簿ろぼをお迎えに——と、これへ来ても、正成はじめ、弟の正季まさすえ、一族すべて、特別、身にかざる綺羅きらなよろい太刀や行粧などは持ち合せていなかった。
帝をはじめ、茫然、疑い怖れているばかりだったが、時に袁紹えんしょうあって、鹵簿ろぼの前へ馬をすすめ
三国志:02 桃園の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
新田義貞からの早打ち——鎌倉大捷の上奏文——をたずさえた急使、長井六郎、大和田小四郎のふたりは、福原(神戸)の道で鹵簿ろぼの列に会し、思わず供奉ぐぶの前列へ走りよって
供奉の公卿百官から滝口たきぐち(近衛兵)の甲冑かっちゅうまで、洩るるはなき鹵簿ろぼであったが、俊基朝臣だけは、天皇のお還幸かえりを仰いだ後も、あとの残務にとどまるものと見せて、じつは飄然
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
わけて鮮やかに思い出せるのは、在留シナ人の葬式と、明治天皇行幸の鹵簿ろぼであった。
鹵簿ろぼはたしかオープンの三頭立て馬車で、道幅せまい相沢の貧民街も通ってゆく。
天皇と競馬 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
鹵簿ろぼはたしかオープンの三頭立て馬車で、道幅せまい相澤の貧民街も通つてゆく。
折々の記 (旧字旧仮名) / 吉川英治(著)
と、鹵簿ろぼの間近まで寄ってくる様子なのだ。帝は、戦慄されて、お答えもなし得ないし、百官も皆、怖れわななき、さすがの袁紹さえも、その容態の立派さに、呆っ気にとられてはばめもできなかった。
三国志:02 桃園の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)