あな)” の例文
当夜一度に二、三人ずつ女をあなうちに下すと、蛇神の名代たる二、三蛇ちおり、女巫みこが廟のぐるりを歌い踊り廻る間にこれと婚す。
今彼の読んでいるのは、フランツ・カフカという男の「あな」という小説である。小説とはいったが、しかし、何という奇妙な小説であろう。
狼疾記 (新字新仮名) / 中島敦(著)
さうして二人ふたりだまつてつてゐると、何時いつにか、自分達じぶんたち自分達じぶんたちこしらえた過去くわこといふくらおほきなあななかちてゐる。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
山越しに木曾路へ出て、汽車に乗るとすれば、トンネル又トンネルがあつて、この温気に、土竜のやうに、暗のあなを這ひ、石炭の粉の雨を浴びなければならない。
天竜川 (新字旧仮名) / 小島烏水(著)
人足は夕食にその握り飯を一つもらうと、明け方までは、義務として、残業労働を、再びそのあなの中で、「あの世」の人のごとくに続けねばならないのであった。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
二階堂谷のあな——といふのはこゝであつたのか! 私は少青年時代に愛讀して手離さなかつた日本外史の、その章を咄嗟に思ひ出して、不意に感動に襲はれて、頭の中がジーンと痺れるのを覺えた。
滑川畔にて (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
『阿育王譬喩経』には大長者があなに穀千斛を蔵し、後これを出すに穀はなくて三歳ばかりの一小児あり、言語せぬ故何やら分らず。大道辺に置いて行人に尋ぬれどる者なし。
たちまちあなも首斬りもカンテラも一度に消えて余はボーシャン塔の真中まんなか茫然ぼうぜんたたずんでいる。ふと気がついて見るとそば先刻さっきからす麺麭パンをやりたいと云った男の子が立っている。
倫敦塔 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
細君はようやく気がついて口をつぐんでしまう。そうして二人が黙って向き合っていると、いつの間にか、自分達は自分達のこしらえた、過去という暗い大きなあなの中に落ちている。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)