兼実かねざね)” の例文
大蔵卿泰経おおくらきょうやすつねは、九条兼実かねざねや左大臣経宗つねむねや、内大臣実定さねさだなどを説きまわった。後白河法皇のお心もそこに決しられてあるという。
日本名婦伝:静御前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
中には月輪つきのわ殿(九条兼実かねざね)の玉葉ぎょくよう八合、光明峯寺殿(同道家みちいえ)の玉蘂ぎょくずい七合などをはじめ、お家累代るいだいの御記録の類も数少いことではございませんでした。
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
公家のうちでは九条関白兼実かねざねが(後の法住寺殿、又は月輪殿)法然に対する信仰は殊に比類のないものであった。
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
九条兼実かねざねの如く頼朝から関白氏の長者を貰つて、頼朝に天下の実権を引渡すやうな、いつの世にも絶えまのないエゴイストの存在が巧みに利用せられてゐるのである。
家康 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
二十歳ではじめて百首歌を詠じたが、二十一で更に『堀河ほりかわ百首』の題で百首を詠んだ。このとき右大臣兼実かねざね、俊恵、寂蓮、隆信の絶讃を博した。『千載集』には八首採られた。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
それは名高い関白兼実かねざねの後の九条植通たねみち玖山公きゅうざんこうといわれた人である。
魔法修行者 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
中には月輪つきのわ殿(九条兼実かねざね)の玉葉ぎょくよう八合、光明峯寺殿(同道家みちいえ)の玉蘂ぎょくずい七合などをはじめ、お家累代るいだいの御記録の類も数少いことではございませんでした。
雪の宿り (新字旧仮名) / 神西清(著)
月輪の関白兼実かねざねは、すなわち座主の、血をわけた兄であった。で、時折に便りをよこして、便りを求めるのである。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
これより前、九条兼実かねざねは清輔を認めていたが、その卒去後間もなく俊成を引見した。その後子供の定家は九条家の家司になり、父子そろって永く九条家の庇護ひごを受けるようになった。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
殊に、後白河法皇の御信任は日に厚く、九条兼実かねざねなども、義経を無二の者としている傾きがある。——頼朝の心もまた、それには穏やかであり得なかった。
日本名婦伝:静御前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
天下一日も主なかるべからずと、九条兼実かねざねの議によって、高倉天皇の第四皇子後鳥羽天皇がご践祚せんそになった。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
さき摂政太政せっしょうだいじょう大臣であり関白の重職にまでなった禅閤兼実かねざね住居すまいだけあって、その豪壮な庭構えや室内の調度の贅沢さには眼も心も奪われるような心地がする。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
崖の下は月輪川で、谷の奥所おくが月輪関白つきのわかんぱく兼実かねざねの墓があるという。墓といえば、ついそこの眉にせまる阿弥陀あみだみねの下あたりは墓や御陵ごりょうだらけだった。鳥部野が近いのである。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
まだ法体ほったいにならぬまえは——月輪関白兼実かねざねとして朝廟ちょうびょうの政治に明け暮れしていたころは、非常に気もたかく強く、七人もいる息女むすめたちのことにでも屈託くったくなどしたことのない性格であったが
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「九条兼実かねざね卿。また、院のご近侍たる朝方ともかた卿や親信卿なども……」
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼をよく知る九条兼実かねざねさえ、その日の日記に
日本名婦伝:静御前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)