鎮西ちんぜい)” の例文
旧字:鎭西
それでだれいうとなく、為朝ためとものことを鎮西八郎ちんぜいはちろうぶようになりました。鎮西ちんぜいというのは西にしくにということで、九州きゅうしゅう異名いみょうでございます。
鎮西八郎 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
柳葉りゅうようを射たという養由基ようゆうき、また大炊殿おおいでんの夜合戦に兄のかぶとの星を射削ッて、敵軍のきもを冷やさせたという鎮西ちんぜい八郎の技倆ぎりょう、その技倆に達しようと
初恋 (新字新仮名) / 矢崎嵯峨の舎(著)
鎮西ちんぜい八郎でも一たまりもない、まして道庵先生の如きに於ては、直さんに会っちゃ、ほんとうにかなわないという賞讃をこめたのかも知れません。
大菩薩峠:35 胆吹の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
安島二郎というのは当主、安島一郎子爵の弟で、現在、鎮西ちんぜい電力会社の重役をしている。有名な道楽者だ。兄の炭坑王のうちに同居していると見える。
山羊髯編輯長 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
興世王や玄明を相手に大酒を飲んで、酔払つてくださへ巻かなかつたらば、うぢは異ふが鎮西ちんぜい八郎為朝ためとものやうな人と後の者から愛慕されただらうと思はれる。
平将門 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
広言吐きながらのっしのっしと現れたのは、鎮西ちんぜいの八郎が再来ではないかと思われる、六尺豊かの大兵漢です。
文政元年彼は三年の喪を終りて終に鎮西ちんぜいの遊を試みたり。是より先き彼は屡々五畿及び江濃尾勢の諸国に漫遊せしかども未だ嘗て千里の壮遊を試みざりし也。
頼襄を論ず (新字旧仮名) / 山路愛山(著)
彼れ嘉永三年鎮西ちんぜいの山川を跋渉ばっしょうし、四年藩主の駕にして江戸に到り、相房形勢の地を按じ、さらに東北に向って遠征を試みんと欲し、肥後ひごの人宮部鼎蔵ていぞう
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
義経、不徳のため、鎌倉どのの譴責けんせきをこうむり、今日、鎮西ちんぜいに落ちて参りまする。思えば、きょうまでの御鴻恩ごこうおんは海のごとく、微臣の奉公は一つぶの粟だにも足りません。
日本名婦伝:静御前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
雉四郎とやら愚千万、昔保元ほうげんの合戦において、鎮西ちんぜい八郎為朝ためとも公、兄なる義朝よしともに弓は引いたが、兄なるが故に急所を避け、冑の星を射削りたる故事を、さてはご存知無いと見える。
弓道中祖伝 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
これ父清正常にるところ、賤岳しずがたけに始まり征韓に至る大小百余戦、向うところ敵なし、庚子の役また幕府のために力をつくし以て鎮西ちんぜいの賊を誅す、伝えて忠広に至り、以て大阪に従役す
鎮西ちんぜいの剛の者磯貝平太の名は、この地まで聞えていたのであった。
轆轤首 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
つつうと進み出ると、噛みつくように言ったのはまが鎮西ちんぜい八郎のあの大兵漢です。
と、昔から鎮西ちんぜいに名高い名族の氏姓うじせいをゆるして、臣下のそれぞれに名のらせた。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
鎮西ちんぜいの聖光房弁長(また弁阿)は筑前の国加月庄の人であったが、十四の時天台を学びその後叡山に登り、一宗の奥義を極めたが、建久八年法然六十五、弁阿三十六の時吉水の禅室にまいり
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)