立罩たちこ)” の例文
朝霧深く立罩たちこめる海道には、まだ往来の人もなく並木の松を越して彼方に、遠い海が光っている。孫次郎は足を停めて振返った。
おもかげ抄 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
あたりに鬱蒼と立罩たちこめる松、杉、櫟、桜、そのほか様々な木々は、それぞれに思いのままに幹を伸ばし、枝を張り、葉をつけて空を覆っていた。
植物人間 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
雲と立罩たちこめる名声のただ中に、名人紀昌は次第に老いて行く。既に早く射を離れた彼の心は、ますます枯淡虚静こたんきょせいの域にはいって行ったようである。
名人伝 (新字新仮名) / 中島敦(著)
軟泥は舞上ってロンドンの霧のようにあたりに立罩たちこめ、各自の携帯燈は、視界を殆ど数センチにまで短縮し、一同は壁の中に閉じ込められたようになった。
地球発狂事件 (新字新仮名) / 海野十三丘丘十郎(著)
水は音もしないで、静止したやうに星の影をひたしてゐた。対岸には濛靄が立罩たちこめてどこをてもきてゐるやうな家はなかつた。電車の響きばかりが劇しく耳についた。
復讐 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
高台の上に建つこの大伽藍だいがらんは、はてしない天にむかって、じっと祈りをささげているのではないか。明るい空気のなかに、かすかなもやふるえながら立罩たちこめてくるようだった。
秋日記 (新字新仮名) / 原民喜(著)
上流がよりひどい暴雨に遇い水量を増したのであろう、冷い水蒸気が江面の上に一杯立罩たちこめている。婦は首を突き出したまま長々欠伸あくびをし、薄どんより霞んでいる奔流に目をやった。
土城廊 (新字新仮名) / 金史良(著)
おつとり霧も立罩たちこめて
山羊の歌 (新字旧仮名) / 中原中也(著)
中は畳四帖敷ぐらいの広さで、天井も高く、下には古い藁屑がいっぱい散乱していたし、おまけに鼻をくような悪臭がむっと立罩たちこめていた。
殺生谷の鬼火 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
今でも覚えているが、その日は猛烈な砂埃すなぼこりが深い霧のようにあたりに立罩たちこめ、太陽はそのうす濁った砂の霧の奥から、月のようなうす黄色い光をかすかに洩らしていた。
虎狩 (新字新仮名) / 中島敦(著)
いつのまにか夜が明けて、おびただしいガスが帰路一めんに立罩たちこめていることもあった。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
嫉妬の生ずる余地の無い迄に、夏姫の周りに立罩たちこめた雰囲気が彼等を麻痺させていたのである。
妖氛録 (新字新仮名) / 中島敦(著)
すると青緑色のもや立罩たちこめた薄暗い光線の中に、瘡蓋かさぶただらけの醜い背中が露出された。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
四辺あたりの空気が重苦しく立罩たちこめ不吉な予感が静かな部屋の中を領している。突然、音も無く室の天井が下降し始める。極めて徐々に、しかし極めて確実に、それは少しずつ降りてくる。
牛人 (新字新仮名) / 中島敦(著)
いつのころから、また、何がもとでこんな病気になったか、悟浄ごじょうはそのどちらをも知らぬ。ただ、気がついたらそのときはもう、このようないとわしいものが、周囲に重々しく立罩たちこめておった。
悟浄出世 (新字新仮名) / 中島敦(著)