痴呆ちほう)” の例文
旧字:癡呆
一時的に狂態を演ずるところの痴呆ちほう状態になる一種の病的現象というものは、狐が化かすという口碑伝説のつたわらない以前の日本にも
ばけものばなし (新字新仮名) / 岸田劉生(著)
それがいつでも葉子の心を不安にし、自分というものの居すわり所までぐらつかせた。どうかして倉地を痴呆ちほうのようにしてしまいたい。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
爪のない猫! こんな、便たよりない、哀れな心持のものがあろうか! 空想を失ってしまった詩人、早発性痴呆ちほうに陥った天才にも似ている!
愛撫 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
富者はその美徳をあまり多く享有する事の罪を自覚するがゆえに、その贖罪しょくざいのために種々の痴呆ちほうを敢行して安心を求めんとする。
丸善と三越 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
痴呆ちほうのように何も思うこともなかった。ステッキにすがって静かに目をつぶると、ひとりでにうとうとと睡気ねむけがさして来た。
六月 (新字新仮名) / 相馬泰三(著)
真の絶望というものは、ただ、人を痴呆ちほう状態に置く。脱力した状態のままで、ただ何となく口に希望らしいものを譫言うわごとのようにいわせるだけだ。
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
あの時分の若い痴呆ちほうな恋が、いつの間にか、水にとかされて行く紅の色か何ぞのように薄く入染にじんでいるきりであった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
ひとりは米屋で破産、ひとりは汚い女をおめかけに持って痴呆ちほうになり、ともにふるさとの、笑いものであった。沼の水を渡って来る風は、とても臭い。
懶惰の歌留多 (新字新仮名) / 太宰治(著)
かかる破滅を予言する者は盲者であり、かかる破滅を恐るる者は痴呆ちほうである。革命はジャックリーの種痘である。
あらゆる恐ろしいもの、あらゆる醜いもの、あらゆる色彩、あらゆる動き、あらゆる音響が、彼の脳髄を痴呆ちほうにし、彼の眼をめしいにし、彼の耳を耳なえにした。
人間豹 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
波止場はとばで船を待っているうちに、空がようやく明り出した。雲が千切れながら、青い空を見せ始めた。船を待つ人は皆、痴呆ちほうに似た表情をし、あまり口をかなかった。
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
「早発性痴呆ちほうと云うやつですね。僕はあいつを見る度に気味が悪くってたまりません。あいつはこの間もどう云う量見か、馬頭観世音ばとうかんぜおんの前にお時宜じぎをしていました」
歯車 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
一夜の遊女にたわむれるなぞというのではなく、軽率な感傷に豪毅ごうきな精神を忘れたあげく、いっそあの女とこの土地に土着してしまったら痴呆ちほうのように安楽であろうと考えるのだ。
流浪の追憶 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
お前だ! (目の前の村子が、この男の白熱した心と目に、妻に見えて来ている。しかし、これは、以前の痴呆ちほう状態からの錯誤さくごとは全くちがって、集中から来るエネルギッシュな倒錯である)
胎内 (新字新仮名) / 三好十郎(著)
雪子は激動の極、少し痴呆ちほう状態になつてかえつて逆に刺戟しげきを求めるこゝろから、もつと眼の前で惨劇の進むのに息詰まる興味を持つやうになつてゐた。
過去世 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
痴呆ちほうのような幸福だ」と彼は思った。そしてうつらうつら日溜りにかがまっていた。——やはりその日溜りの少し離れたところに小さい子供達がなにかして遊んでいた。
冬の日 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
そして、大きな口をあけたまま、痴呆ちほうのように、この圧倒的な人外境の風景に見とれていた。
影男 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
三郎はやがてひとつの態度を見つけた。無意志無感動の痴呆ちほうの態度であった。風のように生きることである。三郎は日常の行動をすべて暦にまかせた。暦のうらないにまかせた。
ロマネスク (新字新仮名) / 太宰治(著)
たとえば村の名物になっている痴呆ちほうの男が往来でいろいろのおかしい芸当や身ぶりをするのを見ていても、少しも笑いたくならなかった。むしろ不快な悲しいような心持ちがした。
笑い (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
卑しむべき痴呆ちほうの臭いがした。
風宴 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
鋭くて厳粛で怜悧れいりな文化の果てが、むしろ寂寥を底に持ちつつ取りとめもない痴呆ちほう状態で散らばっている巴里。
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
すぐ堪へ切れない内応者があつて、細胞はまた一時に爆発した。そしてすつかり困迷して痴呆ちほう状態に陥つた雪子の心身へ、若く甘い魅惑は水の如くひたり込んだ。
過去世 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
この普通常識から批判すれば痴呆ちほうのような甘いお人好しの観念が、時にかの女の知性以上に働いて、かの女を非常に謙遜けんそんにしたり、時には反対に人を寛大に感じさせ過ぎてかの女を油断に陥れる……
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)