正平しょうへい)” の例文
懐良王は、後醍醐ごだいご帝の皇子、延元えんげん三年、征西大将軍に任じ、筑紫つくし鎮撫ちんぶす。菊池武光きくちたけみつこれに従い、興国こうこくより正平しょうへいに及び、勢威おおいに張る。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
こうした中で、『続後拾遺集』から二十一年目、正平しょうへい元年(貞和じょうわ二年)十一月九日に、光厳院御自撰で成ったのが『風雅和歌集』であった。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
これ岩櫃山いわひつやまというて正平しょうへい年間吾妻太郎行盛あがつまたろうゆきもりの城跡、巨巌重畳きょがんじゅうじょう、断崖聳立しょうりつ、山中に古戦場あり、今日に及んでなお白骨のよこたわるものありという。
正平しょうへい二年のとしも押しつまってきたが、戦雲はいよいよけわしい。正行が陣頭に立ってから、前後二度の大戦に敗れた尊氏たかうじは、それまでに味方のうちに
日本名婦伝:大楠公夫人 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
んぬる正平しょうへいの昔、武蔵守むさしのかみ殿(高師直こうのもろなお)が雲霞うんかの兵を引具ひきぐして将軍(尊氏たかうじ)御所を打囲まれた折節、兵火の余烟よえんのがれんものとその近辺の卿相雲客けいしょううんかく、或いは六条の長講堂
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
これはまさしく当時のものであるし、何様なにさま、楠公の遺物ではないかと川崎氏はさらに調査を進めまして、皮をがして見ると、中から正平しょうへい六年六月という年号が出て来ました。
正平しょうへい七年十二月十九日、新田義宗よしむね南軍を率い、足利尊氏を狩野河こうのかわに討つべく、武蔵の国に入ったところ、尊氏すでに狩野河を発し、谷口から府中に入り、人見原ひとみはらにて激戦したが
剣侠 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
平原の禰衡、あざな正平しょうへい。迎えをうけて、ふだん着のあか臭い衣服のまま、飄々乎ひょうひょうことしてやってきたが曹操以下の並居る閣のまん中に立つと、無遠慮に見廻して
三国志:05 臣道の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
んぬる正平しょうへいの昔、武蔵守むさしのかみ殿(高師直こうのもろなお)が雲霞うんかの兵を引具ひきぐして将軍(尊氏たかうじ)御所を打囲まれた折節、兵火の余烟よえんのがれんものとその近辺の卿相雲客けいしょううんかく、或ひは六条の長講堂
雪の宿り (新字旧仮名) / 神西清(著)
彼が、入り込んだのは、正平しょうへい二年、足利勢の細川兵部大輔ひょうぶだゆうや山名時氏の軍が、もろくも年少の大将楠木正行のために、一敗地にまみれて敗走したすぐ後のことだった。
日本名婦伝:大楠公夫人 (新字新仮名) / 吉川英治(著)