元治げんじ)” の例文
「わたしが丁度二十歳はたちの時だから、元治げんじ元年——京都では蛤御門はまぐりごもんのいくさがあった年のことだと思え」と、おじさんは先ず冒頭まくらを置いた。
半七捕物帳:01 お文の魂 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
話が少し元へ返って、私の十二の時が文久三年、十三が確か元治げんじ元年の甲子年きのえねどしであった。この甲子年はめったには来ません。
かくて毅堂は元治げんじ元年四十歳の時、暫時帰省するの日まで、およそ二十年の間慈母の面を拝することができなかったのである。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
夏蔭は元治げんじ元年八月二十六日に七十二で歿した。五百が四十九の時である。鼎斎は安政三年正月七日に五十八で歿した。五百が四十一の時である。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
時こそ元治げんじ元年の多事な年の暮れであったが、こんなに友だちと歩調を合わせて、日ごろ尊敬する諸大人のために何かの役に立ちに行くということは
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
藩士尊攘派が追われたのちの京都へ、あくる文久四年(元治げんじ元)正月将軍は再び上洛し、右大臣従一位の叙位をうけ、朝廷に十五万俵を献じ「公武一和顕然」たるものだった。二月の綸旨りんじ
尊攘戦略史 (新字新仮名) / 服部之総(著)
国貞は天明六年に生れ元治げんじ元年七十九歳を以て歿したればその長寿とその制作のおびただしきは正に葛飾北斎かつしかほくさい頡頏きっこうし得べし。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
抽斎歿後の第六年は元治げんじ元年である。森枳園が躋寿館せいじゅかんの講師たるを以て、幕府の月俸を受けることになった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
過ぐる年、彼が木曾十一宿総代の一人として江戸の道中奉行所から呼び出されたのは、あれは元治げんじ元年六月のことであったが、今度はあの時のような庄屋仲間の連れもない。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
今延宝元禄より元治げんじ慶応に及ぶ俳優画を蒐集してこれを一覧せんには、浮世絵各派画風の推移はおのずからまた各時代の俳優が芸風の変化に思到おもいいたらしむべし。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
阿島の旗本の家来で国事に心を寄せ、王室の衰えをなげくあまりに脱籍して浪人となり、元治げんじ年代の長州志士らと共に京坂の間を活動した人がある。たまたま元治甲子きのえねの戦さが起こった。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
当時の生徒で、今名を知られているものは山路愛山やまじあいざんさんである。通称は弥吉やきち、浅草堀田原ほったはら、後には鳥越とりごえに住んだ幕府の天文かた山路氏のえいで、元治げんじ元年に生れた。この年二十三歳であった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
元治げんじ元年十一月十九日のことで、峠の上へは朝から深い雨が来た。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
彼はその友人の京都便りを読んで、文久元治げんじの間に朝譴ちょうけんをこうむった有栖川宮親王ありすがわのみやしんのう以下四十余人の幽閉をとかれたことを知り、長いこと機会を待っていた岩倉具視ともみ入洛じゅらくまでが許されたことを知った。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)