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藤堂
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とうどう
ふりがな文庫
“
藤堂
(
とうどう
)” の例文
その後暫くあって、染井の
藤堂
(
とうどう
)
の屋敷と、
染井稲荷
(
そめいいなり
)
との間にある旗本の屋敷の、久しく明いていたのに人の
気配
(
けはい
)
がするようです。
大菩薩峠:17 黒業白業の巻
(新字新仮名)
/
中里介山
(著)
◎
伊賀
(
いが
)
の
上野
(
うえの
)
は旧
藤堂
(
とうどう
)
侯の領分だが藩政の頃
犯状
(
はんじょう
)
明
(
あきら
)
かならず、
去迚
(
さりとて
)
放還
(
ほうかん
)
も為し難き、俗に
行悩
(
ゆきなや
)
みの
咎人
(
とがにん
)
ある時は、
本城
(
ほんじょう
)
伊勢
(
いせ
)
の
安濃津
(
あのつ
)
へ
差送
(
さしおく
)
ると
号
(
ごう
)
し
枯尾花
(新字新仮名)
/
関根黙庵
(著)
拙者は
藤堂
(
とうどう
)
家の臣、たたらたらら団兵衛という者だが、主君の急用にて京へ行く途中なのだ、今ここで衣服大小を
だだら団兵衛
(新字新仮名)
/
山本周五郎
(著)
が、家を尋ねると、
藤堂
(
とうどう
)
伯爵の小さな長屋に親の
厄介
(
やっかい
)
となってる
部屋住
(
へやずみ
)
で、自分の書斎らしい室さえもなかった。
斎藤緑雨
(新字新仮名)
/
内田魯庵
(著)
二月二十八日に
藤堂
(
とうどう
)
家の儒臣塩田随斎が下総国
大貫
(
おおぬき
)
にある主家の
采邑
(
さいゆう
)
に赴かんとする途上
遽
(
にわか
)
に病んで没した。享年四十八である。随斎の伝は『日本教育史資料』に載っている。
下谷叢話
(新字新仮名)
/
永井荷風
(著)
▼ もっと見る
筒井
(
つつい
)
入道
定次
(
さだつぐ
)
の所領であったものを、家康が没取して、これを
藤堂
(
とうどう
)
高虎に与え、その藤堂藩は、昨年、入部してから、上野城を改築し、
年貢
(
ねんぐ
)
の改租やら治水やら国境の充実やら
宮本武蔵:08 円明の巻
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
灰色の瓦を
漆喰
(
しっくい
)
で塗り込んで、碁盤の目のようにした壁の所々に、腕の太さの木を竪に並べて
嵌
(
は
)
めた窓の明いている、
藤堂
(
とうどう
)
屋敷の門長屋が寄宿舎になっていて、学生はその中で
雁
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
されば妾もこの人をば母とも思いて万事
隔
(
へだ
)
てなく交わりければ、出獄の
後
(
のち
)
も忘るる
能
(
あた
)
わず、同女が
藤堂
(
とうどう
)
伯爵邸
(
はくしゃくてい
)
の老女となりて、東京に来りし時、妾は直ちに訪れて旧時を語り合い
妾の半生涯
(新字新仮名)
/
福田英子
(著)
この亭主は六平と申しましてね、ついこのごろまで
藤堂
(
とうどう
)
さまのお陸尺。
顎十郎捕物帳:21 かごやの客
(新字新仮名)
/
久生十蘭
(著)
でも、そのころになると、この宿場を通り過ぎて行った東山道軍の消息ばかりでなく、長州、薩州、紀州、
藤堂
(
とうどう
)
、
備前
(
びぜん
)
、土佐諸藩と共に東海道軍に参加した尾州藩の動きを知ることはできたのである。
夜明け前:03 第二部上
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
藤堂
(
とうどう
)
家の儒者塩田随斎もまた当時有名の詩人にして同じく竹渓が生前の友である。
下谷叢話
(新字新仮名)
/
永井荷風
(著)
果して間もなく辞職して、
藤堂
(
とうどう
)
氏の老女となりぬ。
妾の半生涯
(新字新仮名)
/
福田英子
(著)
三
藤堂
(
とうどう
)
家の老女
妾の半生涯
(新字新仮名)
/
福田英子
(著)
“藤堂(藤堂氏)”の解説
藤堂氏(とうどうし、とうだうし)は、武家・華族だった日本の氏族。近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町在士)が発祥。戦国時代に藤堂高虎が出て江戸時代に津藩を領する外様大名となり、維新後は華族の伯爵家に列した。
(出典:Wikipedia)
藤
常用漢字
中学
部首:⾋
18画
堂
常用漢字
小5
部首:⼟
11画
“藤堂”で始まる語句
藤堂家
藤堂高虎
藤堂和泉守
藤堂采女
藤堂近江守
藤堂佐渡守様
藤堂佐渡守高虎
藤堂与右衛門高虎