臼杵うすき)” の例文
これに引きかえ裏九州には、中津、大分、臼杵うすき延岡のべおか、宮崎、都城みやこのじょうの如き町々はありますが、表九州の都には比ぶべくもありませんでした。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
その邸は青山だというから、豊後国ぶんごのくに臼杵うすきの稲葉家で、当時の主公久通ひさみちに麻布土器町かわらけちょうの下屋敷へ招かれたのであろう。連中は男女交りであった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
かねがね平家に服従の様子をみせていた、緒方おがたの三郎をはじめとして、臼杵うすき戸次へつぎ松浦まつら党といった面々が、東国源氏に加わったというのである。
……稲葉能登守といえば、豊後ぶんご臼杵うすきで五万二千石。外様とざま大名のうちでもそうとうな大藩だが、この雅之進というやつは、よほど洒落れた男だと思われる。
顎十郎捕物帳:16 菊香水 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
昨、昭和八年の六月初旬から、当横浜市の宮崎町に、臼杵うすき耳鼻科のネオンサインを掲げておる者でありますが、突然にかような奇怪な手紙を差し上げる非礼をお許し下さい。
少女地獄 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
田沼主殿頭とのものかみ様ご用人、三浦作左衛門と申す人より——父事日頃三浦殿と、往来いたしておりましたれば、九州浪人臼杵うすき九十郎と申す、鐘巻流の剣客を、紹介いたし参りました。
血煙天明陣 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
白石しらいしと云う漢学の先生が、藩で何か議論をして中津を追出おいだされて豊後の臼杵うすき藩の儒者になって居たから、この先生に便たよって行けば売れるだろうとおもって、臼杵まで態々わざわざ出掛けていっ
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
天然痘流行の為、私達は念の為大分の臼杵うすきで種痘をした。Y、十四位のとき種痘したぎりで、どうも全感らしく、崇福寺の裏の高い段々を降る時など、気分が悪くなったらしかった。
長崎の一瞥 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
これから二里ばかり離れたところにもたくさんの磨崖仏があるし、また臼杵うすきのほとりにもたくさんの磨崖仏があるとのことであるが、一々それを見に行くのは暑い時分にたいへんなことである。
別府温泉 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
▼また「多久佐里たぐさり系図」にも、以上のことは立証されており、傍証としてなら、なお、九州の臼杵うすき党や尾形党の分族が、当地方に移住しておることなどもあり、種々研究に足る史料は少なくない。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
サド 日向ひゅうが東西臼杵うすき
臼杵うすき戸次へつぎ松浦まつら党などが、大挙して攻め寄せるとか、耳に入るもの一つとして平家に有利な知らせではない。
直卿は初め臼杵うすき氏、後牧氏、讚岐の人で、茶山の集に見えてゐる。其他軽浮にして「時々うそをいふ」源十、矢代某に世話を頼んでもらつた主計かぞへ、次に竹里に狐の渾名あだなをつけられた某である。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
一行の中には豊後の甲原かふはら玄寿があり、讚岐の臼杵うすき直卿があつた。玄寿、名は義、漁荘と号した。杵築きつき吉広村の医玄易の子である。直卿、名は古愚、通称は唯助、黙庵と号した。後牧氏にあらためた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
という意見の対立があったが、結局、公家たちの意向が通って、院の御下文おんくだしぶみが義経の手に渡った。それには、緒方三郎始め、臼杵うすき戸次へつぎ松浦党まつらとうの面々が、義経の下知に従うべきことと記されていた。