摂政せっしょう)” の例文
或いは摂政せっしょう関白かんぱくの位におのぼりになりまして、従って、あなたが大名公家に立身なさろうとも、それは、あなたの幸福ではありませんよ。
大菩薩峠:36 新月の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
殊に相手はおいと云っても、天下のいちひとであり、昭宣公の跡を継いで摂政せっしょうにも関白かんぱくにもなるべき人であるのが、さすがに骨肉こつにくの親しみを忘れず
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
副将軍むしろ摂政せっしょうというような格式で諸侯の拝賀まで要求する、どこまで勢いに乗って行けるか、ともかく最後は戦争だ。それだけは分っていた。
家康 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
そうよ! 摂政せっしょう関白のむこになったことのあるのを鼻にかけて、白昼、都の大路をあるいた気で、この東国は歩かせぬ。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
孝謙天皇は女帝であらせられたので、いきおい光明太后が摂政せっしょうされ、紫微中台より令旨りょうじは発せられるようになった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
家に向う途中、摂政せっしょう藤原基房もとふさが、参内途中の行列とぱったり出わしてしまった。
第七十五条 憲法及皇室典範ハ摂政せっしょうヲ置クノ間之あいだこれヲ変更スルコトヲ得ス
大日本帝国憲法 (旧字旧仮名) / 日本国(著)
また、昔から、天皇は、主権者ではなかったということは、「摂政せっしょう」とか、「関白かんぱく」とか「左右大臣さうだいじん」とかいう名称が、空名としてながく継続していたのと同じ歴史を、天皇制はもっていたのである。
そして摂政せっしょうにこの人がなることも当然のことと思われていたが
源氏物語:14 澪標 (新字新仮名) / 紫式部(著)
天武天皇崩御ほうぎょのとき皇太子(草壁皇子)がまだ若かったので(当時は幼帝を立てる例がなかった)皇太后が摂政せっしょうした。
道鏡 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
重盛の子の資盛すけもりが、往来なかで摂政せっしょうの藤原基房もとふさに出会ったところ、資盛が車から降りて礼をしなかったので、当然、彼より身分の高い摂政家の従者が
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かくて勢至丸十五歳近衛院このえいんの御宇、久安三年の二月十三日に山陽の道を踏み上って九重の都のちまたに上り著いた時、途中時の摂政せっしょうであった藤原忠通の行列に行き会ったので
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
推古天皇の御代みよ上宮太子じょうぐうたいし摂政せっしょうとして世を治めておられた飛鳥の頃は、私にとって最もなつかしい歴史の思い出である。私ははじめ史書によってこの時代を学んだのではなかった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
第十七条 (1) 摂政せっしょうクハ皇室典範こうしつてんぱんさだムル所ニ
大日本帝国憲法 (旧字旧仮名) / 日本国(著)
たまたま男の継嗣は長寿にめぐまれず、幼児をようして女帝の摂政せっしょうがつづいたとはいえ、その成人にあらゆる希願と夢を托して、一方に朝家の勢力、日本支配は着々と進み、すべては順潮であった。
道鏡 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
幾多血族の悲しむべき相剋そうこくの後、太子は摂政せっしょうとして立たれた方である。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
(2) 摂政せっしょうハ天皇ノおい大権たいけんヲ行フ
大日本帝国憲法 (旧字旧仮名) / 日本国(著)