弘治こうじ)” の例文
弘治こうじ三年(一五五七)七月、越後えちごのくに春日山かすがやまの城中では、いま領主うえすぎ謙信けんしんを首座として、信濃しなのへ出陣の軍議がひらかれていた。
城を守る者 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
弘治こうじ美濃みのの内乱に、父祖以来の明智城も火中に失って、従兄弟いとこ弥平治光春やへいじみつはると、ふたりきりで越前へ落ちて行ったものである。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
義竜は弘治こうじ二年の春、庶腹しょふくの兄弟喜平次きへいじ孫四郎まごしろうの二人を殺し、続いて父道三どうさん鷺山さぎやまたたこうて父をほろぼしてからは、美濃みのの守護として得意の絶頂に立っていたが
赤い土の壺 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
弘治こうじ二年に戦没した先祖の墓は幾百年の星霜せいそうて、その所在地は知られなかった。
取り交ぜて (新字新仮名) / 水野葉舟(著)
そも/\此事の由来を尋ぬるに、んぬる弘治こうじ三年の秋薬師寺家の家老馬場和泉守石山本願寺の勢を頼みて主家を横領しければ、淡路守政秀公父祖代々の領地を被逐おはれ堺の津より中国へ落延おちのび給ひ
弘治こうじ三年から永禄えいろく元年、二年——と領内の治績はそういうふうに良くなって来た。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
天文てんもん二十四年は十月に改元があって弘治こうじ元年となり、織部正の身にいやな災難がつゞけざまに見舞った一年も過ぎて、明くれば弘治二年丙辰へいしんの正月となったが、参賀の諸侍が初春の祝儀を述べても
その年は弘治こうじ二年で、もう毎年の雨期に近い五月の初めだった。
茶漬三略 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
弘治こうじ元年。
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)