宗徒むねと)” の例文
ほとんどが宗徒むねとの新田一族で——脇屋義助、義治よしはるをはじめ、堀口、綿打、里見、烏山、細屋、大井田、大島、籠守沢こもりざわ額田ぬかだ、世良田、羽川
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
然し何等の答は発せぬ。片倉小十郎は黙然として居る。すると原田左馬介宗時という一老臣、これも伊達家の宗徒むねとの士だが成実の言に反対した。
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
君ならでは人にして人に非ずとうたはれし一門の公達きんだち宗徒むねとの人々は言ふもさらなり、華冑攝籙くわちゆうせつろく子弟していの、苟も武門の蔭を覆ひに當世の榮華に誇らんずるやから
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
即座に峠を越えて隣領に、小勢を顧みず斬り込まねばならぬ大切な切所せっしょで、それゆえにこそいわゆる頼みきったる宗徒むねとの面々を、伊達だて家でもこの辺境には置いたのである。
雪国の春 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
若輩の宗茂は、歴々満座の中に面目をほどこして我陣屋へ帰ると、宗徒むねとの面々を呼び集めて、十死一生の働きすべく覚悟を定めた。第一陣はこの宗茂、並びに弟高橋直正以下三千である。
碧蹄館の戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
という急命で、宗徒むねとの大小名二十一家が狩りもよおされ、現地での結集総兵力は、ほぼ二万をこえようと見られていた。
私本太平記:07 千早帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
大館おおだて義氏、堀口美濃守、江田、額田ぬかだ、烏山、羽川、里見、岩松、武田などの宗徒むねとの一族旗本からまた——在京の禁門軍、名和長年らの諸大名の兵力までをあわせ
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
正成、正季まさすえらと共に自刃した人々の数も、太平記には、宗徒むねとの一族十六人、相随あいしたがう兵五十余人となっているが、前記の朝舜の手紙では、一族二十八人とだけで、ほかは見えていない。
随筆 私本太平記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
夏侯惇かこうじゅん曹洪そうこうの二陣がひかえ、交通守護軍、監戦使には、許褚きょちょ張遼ちょうりょうなどの宗徒むねとともがらが、さながら岸々がんがんの岩を重ねて大山をなすがごとく、水上から高地へかけて、固めに固めていた。
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
錦小路殿(直義ただよしの邸)の方へ駈けつけてゆくのもあり、そこにはすでに、上杉重能、畠山直宗、その他、日ごろ称して、副将軍直参じきさん宗徒むねとといっている面々がひしひし、附近をかためていた。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
で、発向した出征軍は、先陣に黄忠こうちゅう、副将に馮習ふうしゅう、張南。中軍護尉に趙融ちょうゆう廖淳りょうじゅん。うしろ備えには直臣の諸大将。宗徒むねとの旗本など、堅陣雲の如く、蜀の峡中きょうちゅうから南へ南へと押し流れて行った。
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
されど宗徒むねとの大将達は
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)