子刻ここのつ)” の例文
やがて子刻ここのつ、上野の鐘が五月雨さみだれの空に籠って聞えて来ると、見馴れた場所柄とも思えぬ、不思議な不気味さが犇々と長次の身に迫ります。
「おそのか。」とやさしく種彦は机の上に肱をついたまま此方こなたを顧み、「おッつけもう子刻ここのつだろうに階下したではまだ寝ぬのかえ。」
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「とどけて、ください。子刻ここのつごろ、下ッ引が部屋の窓下へ来ますから、どうかそれに、……渡してやって……」
今しがた霊山の子刻ここのつを打った、これから先が妖物ばけものの夜世界よ。と一同に逡巡しりごみすれば
活人形 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「宵から急ぎの仕事を片付けて、発ったのは子刻ここのつ(十二時)だいぶ過ぎでしたよ。どうかしたら子刻半(一時)近かったかも知れません」
もう子刻ここのつに近い。
それは子刻ここのつ(十二時)近い時分でした。両岸の灯も消え、吉原通いの猪牙舟ちょきぶねの音も絶えて、隅田川は真っ黒に更けて行きます。
ちょうど子刻ここのつ(十二時)、上野の鐘がかすかに余韻を引いて鳴り止むと、どこからともなく、ユラリと出て来た者があります。
子刻ここのつ(十二時)近くになってから、女の声で、——お宅の坊ちゃんを見つけてれて参りましたと言って来た者があります。
「とんでもない。子刻ここのつの鐘を聴いて、それを合図に裏口から入れて貰って、朝の卯刻むつ(六時)の鐘を合図にそっと脱け出す寸法なんで、へッ」
夜の短い時分で、寅刻過ぎというと、すっかり明るくなっているはず、根岸から子刻ここのつ過ぎに出ると五里近い道を辿たどり着くのが精一杯でしょう。
「今夜、正子刻ここのつに庭先まで忍んで参る。娘御の寝所から、あまり遠くない雨戸を一枚明けて、そっと引き入れて貰い度い」
おとといは三月の晦日みそかで、夜中近くまで弟の金次郎を相手に帳面を調べ、それからめいのお豊のしゃくで珍しく一杯呑んで寝たのは子刻ここのつ(十二時)過ぎ。
幸い、綾吉の長屋のツイ三四間先は番太の小屋で、子刻ここのつ前は油障子を開けて、親爺は草履などを作っているのでした。
明日は早いから——と、親類達を帰した後、親子水入らずに別れを惜しんで、お菊が床へ入ったのはやがて子刻ここのつ(十二時)近くになってからでした。
上野の子刻ここのつの鐘が、その最後の余韻を闇の中に納めると、石田清左衛門は、かねて用意した席へピタリと坐りました。
酉刻むつ半(七時)から子刻ここのつ(十二時)前まで、どこに居たか証人を立てて申上げなきゃ、まず助かる見込みはあるまいよ
もう子刻ここのつ(十二時)近いでしょう。街は灰をいたように鎮まって、朧月おぼろづきの精のように、ヒラヒラと飛んで来る花片はなびら
「御町内の衆五六人と川崎へ詣り、戻ったのは子刻ここのつ(十二時)近かったと思います。品川でさんざん飲んだ酔も覚めて、ヘトヘトに疲れておりました」
それじゃこうしましょう。志賀様には御先代から並々ならぬお世話になった私です。その御恩返しのつもりで、お長屋の格子へ、今夜子刻ここのつ(十二時)を
その時ちょうど、上野の子刻ここのつが鳴ったのを、お礼はこの動乱の中に、不思議にきと記憶していたのでした。
昨夜子刻ここのつ(十二時)少し過ぎ、いかにもここへ乗込んで来たに相違はない——が、その時はもう万事終っていた。
「寺男と小坊主が二人、時々顔を出したが、それも宵のうちだけで、子刻ここのつ(十二時)過ぎは辰蔵一人になった」
夜の見廻りは丁寧で、どうかすると半刻もかかることがありますが、それにしてもあんまり遅いので、子刻ここのつ(十二時)近くになってから、幸吉さんが様子を
「八日と十三日と十八日の晩——。宵から子刻ここのつ前まで、仲吉さんと、私は、——あの、裏の納屋なやに居りました」
同じ夜、子刻ここのつ(十二時)過ぎ、永代えいたいのあたりからぎ上がった伝馬てんまが一そう、浜町河岸に来ると、船頭がともを外して、十文字に二度、三度と振りました。
が、半通夜で疲れていたので子刻ここのつ(十二時)過ぎは何にも知らないと言うだけ、薄雲との関係を訊かれると
安倍丹之丞の屋敷はすぐ解りましたが、厳重に門が閉っていて、子刻ここのつ近い刻限では入れようはありません。
幸い聟の錦太郎は浅傷あさでだ、子刻ここのつ(十二時)前に祝言の杯事をして、死んで行く娘を安心させようというのだ
金蔵がたった一人で、私の書いた文句の場所を測り出し、私に構わず掘り出しました。——子刻ここのつ(十二時)から始めて丑刻やつ半(三時)頃までに三尺も掘ったでしょう。
「主人は日光へ行って留守ですし、私一人では淋しかったので、階下したの部屋に休んでいると、子刻ここのつ過ぎになってから、縁側の戸をトントンと軽く叩く者がありました」
その晩子刻ここのつ(十二時)過ぎ、黒木長者の厳しい土塀、ちょうど人肌地蔵の上のあたりへ、星空を背景にして、屋敷の内側から浮き上がるようにじ登った者があります。
あの晩、誰も主人殺しでないという確かな証拠を持っていないのに、たった一人だけ、子刻ここのつから卯刻むつまで他所よそに居たという確かな証拠(現場不在証明アリバイ)を持った人間が居る。
平次が八丁堀から升屋へ帰ったのは、その晩の子刻ここのつ過ぎでした。昨夜も一睡もしないのに、大した疲れた様子もなく、手掛けた事件を、一気に片付けようとするのでしょう。
「私の娘達と一緒に、とんだ夜更しをして、子刻ここのつ(十二時)近くなって寝たそうだが——」
拭いて、そのまま入って寝みましたが、その時はもう子刻ここのつ(十二時)過ぎだったと思います
「夜っぴて飛んで歩くつもりだったが、いい塩梅あんばいに、子刻ここのつ(十二時)前にみんな解ったぜ」
子刻ここのつ(十二時)近くまで飛び廻る子分に対してそれは平次のささやかなねぎらい心でした。
子刻ここのつ(十二時)でしょう。——ところで親分。やはりあれは殺されたんでしょうか」
植幸が号令をかけて、離屋の庭に勢揃いをしたのは、かれこれ子刻ここのつ(十二時)——。
子刻ここのつ(十二時)が鳴ってから寝付きましたから、丑刻やつ(二時)近かったかも知れません。変な音がして眼が覚めると有明ありあけ行灯あんどんの前に、真っ黒な男が立っているじゃありませんか」
「与次郎は何をしていたろう、亥刻よつから子刻ここのつ(十二時)の間の事を聴きたいが——」
「灯を消したのは、幽霊の真似をして忍んで来るお喜多と逢引するためだったろう。それはよく解るが、子刻ここのつ過ぎに死骸を見つけた時、灯がカンカン点いていたのはどうしたわけだ」
表の格子戸を押し倒して、八五郎が飛込んで来たのは、子刻ここのつ(十二時)近い頃でした。その刻限まで、寝もやらずに待っていた平次はこの時ばかりは冗談を言う余裕もなく飛出しざま
その離屋から、子刻ここのつ(十二時)過ぎになって、思いも寄らぬ火事が起ったのです。
子刻ここのつ(十二時)過ぎの店中は、さすがに寝静まって、コトリとも音がしません。
「有難うございます。とんだお手数をかけて相済みませんが、綱吉親分が手前どもの店を出たのは子刻ここのつ少し前で、とんだ好い機嫌でございましたが、まさか、あんな事になろうとは——」
下手人は昨夜の子刻ここのつ過ぎ、宗次郎が帰った後へ行って、宗次郎の脇差で一と思いにやった後、二百両の金をどこかに隠し、脇差を溝にさし込み、わざと見付かるように柄だけ出して落いた
止しましたが、昨夜子刻ここのつ過ぎに、巴屋から急の使いでしょう。行って見ると、路地の中で、あの五人のうちでも、一番美しいと言われたお房が、背中を突かれて死んでいるじゃありませんか
でも、子刻ここのつ(十二時)過ぎに小用に起きたんですから少しはぼんやりしていたことでしょう。首へそれを投げかけられた時はなんか——手拭掛けが首へからまったくらいに思っていたんです。