堂上どうじょう)” の例文
この二人が日本精神病学界の双璧だったことはすでに述べたが、毛利先生を堂上どうじょうの人にたとえるならば、狩尾博士は野人であった。
闘争 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
せっかく、さい大臣の生辰綱しょうしんこう輸送の大役を果たしえても、後日、しゃの口からそんな讒訴ざんそ堂上どうじょうの耳に入れられたらすべては水の泡だろう。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
おそれいりますが、私は、堂上どうじょう方の扱いをよく存じません。それに、家来には田舎侍多く、この大切なお役を
元禄十三年 (新字新仮名) / 林不忘(著)
かくの如きは古今以後和歌が堂上どうじょうにのみ行はれたる弊にして、和歌が堂上にさかんなりし一事は、名所の歌のみならず、すべての歌を腐敗せしむる一原因とはなれり。
人々に答ふ (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
彼の著書『靖献遺言せいけんいげん』の如何に徳川政府顛覆てんぷくあずかりて、力ありしは、その彼よりも偉大なる革命家竹内式部たけのうちしきぶが罪案には、「『靖献遺言』等堂上どうじょう方へ講談致し候」
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
「聞けば独り寝の別れの歌を披露しようとて参ったとか。堂上どうじょうでも地下じげでも身分は論ぜぬ。ただい歌を奉ればよいのじゃ。名は藻とか聞いたが、父母ちちはははいずこの何という者じゃな」
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
借ると称して、堂上どうじょうや諸侯へ使臣を通わせ、また、碑を建つなど。……湊川へはそのあいだ自身で出向いてはおらぬのか
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
今学習院は学職方は公家なり、儒官は菅清家と地下じげの学者と混じて相務められ、定日ありて講釈これ有り。この日は町人百姓まで聴聞に出で候事勝手次第、勿論堂上どうじょう方御出坐なり。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
堂上どうじょう、世上の人々が、まったく義経の本心を見失みうしなって、ただ血眼ちまなこに騒いでいるのもむりなかった。
日本名婦伝:静御前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
山崎流の学旨をはさんで、堂上どうじょう公卿くげ遊説ゆうぜいし、上は後桃園天皇を動かし奉り、下は市井しせいの豪富に結び、その隠謀暴露して、追放せられたるが如き、もしくは明和四年、王政復古、政権統一
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
公卿くげ堂上どうじょうのうちにすら、暗に家康へ意をよせ、秀吉の蹉跌さてつを待っているものが絶無ではない。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
他の十七卿の堂上どうじょうが、問罪謹慎もんざいきんしんをうけるはめとなるや、有村ありむら忽然こつぜんと姿を隠した。
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
菊亭右大臣きくていうだいじんともある堂上どうじょうやかたへ、うかつに手を入れれば、後日ごじつ朝廷ちょうていから、どんなおとがめがあるかもしれないから——これは秀吉ひでよしじしんの手をもってしても、めったなことはできないのであろう。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、一頻ひとしきりに、堂上どうじょう間の笑いばなしになったという。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)