上杉うえすぎ)” の例文
また、れいのごとく、中間部屋にでもとぐろを巻いているのかと思って、脇坂や上杉うえすぎの部屋をのぞきこんで見たが、姿が見えぬ。
明応八年にはまた上杉うえすぎ氏に招かれて越後えちごに行き滞留二年、文亀ぶんき二年に門弟宗長そうちょうを伴って関東へ出、川越に行き、箱根湯本ゆもとに到って旅に死んだ。年八十二。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
上杉うえすぎといふ苗字めうじをばいことにして大名だいめう分家ぶんけかせる見得みえぼうのうへなし、下女げじよには奧樣おくさまといはせ、着物きものすそのながいをいて、ようをすればかたがはるといふ
ゆく雲 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
秀吉ひでよし家康いえやすをはじめ、加賀かが前田まえだ毛利もうり伊達だて上杉うえすぎ北条ほうじょう長曾我部ちょうそかべ、みなそれぞれ名器めいき武将ぶしょうであるけれど、かれらはじぶんのこうをいそぐ以外いがいに、かみしも
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
伊達だて上杉うえすぎや、北条ほうじょう里見さとみなどの諸勢力にねらわれることを怖れ、佐竹の翼下に庇護ひごを乞うた人々である。佐竹が秋田へ移封されるに当って、もし随身しなければ改易離散に及ぶ運命にあったのだ。
三十二刻 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
米沢よねざわの城主上杉うえすぎ弾正大弼だんじょうのだいひつ斉憲なりのりがこれを幕府に献じた。こまかに検すれば南宋『乾道淳煕けんどうじゅんき』中の補刻数葉が交っているが、大体は北宋の旧面目きゅうめんぼくを存している。多紀氏はこれをも私費を以て刻せようとした。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
上杉うえすぎ正弼しょうひつ
随筆 私本太平記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)