譬喩たとえ)” の例文
神に使うる翁の、この譬喩たとえことばを聞かれよ。筆者は、大石投魚をあらわすのに苦心した。が、こんな適切な形容は、凡慮には及ばなかった。
貝の穴に河童の居る事 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
譬喩たとえとしては、はなはだ不似合いなたとえでしょうが、私どもは、そこに迷情を通じて、かえって、仏心の真実を味わうことができるのです。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
国表において又市がんな事をるか知れん、万一重役をあざむき、大事は小事より起る譬喩たとえの通りで捨置かれん……お父様お母様へも書置をしたゝめるがい……硯箱すゞりばこを持って来な
敵討札所の霊験 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
炭竈に立ち上るかすかな煙は、藻汐焼く火とともに恋のほむらの譬喩たとえともなった。
広場の裏の、暗い寂しい、曲がりくねった小路が好きだったよ、——そこには冒険がある、思いもかけぬことがある、泥の中に隠れた鉱石がある。いや、おれが言っているのは譬喩たとえなんだよ。
余は最初より大人と小児の譬喩たとえを用いて写生文家の立場を説明した。しかしこれは単に彼らの態度をもっともよく云いあらわすための言語である。けっして彼らの人生観の高下を示すものではない。
写生文 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「昼行灯昼行灯、よい、これはよい譬喩たとえじゃ」
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
まだお膳も並ばぬうち、譬喩たとえにもしろはばかるべきだが、そっおう。——繻子しゅすの袴の襞襀ひだとるよりも——とさえいうのである。
薄紅梅 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
私どもは人生を橋渡りにたとえた、アジソンの『ミルザの幻影』と思いくらべて、この人生の譬喩たとえを非常に意味ふかく感じます。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
「雪のごとき、玉のごとき、乳の下を……串戯じょうだんにしろ、話にしろ、ものの譬喩たとえにしろ、聞いちゃおられん。私には、今日こんにち今朝こんちょうよりの私には——ははははは。」
薄紅梅 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
さて五欲について思い起こすことは、『譬喩経ひゆぎょう』のなかにある「黒白こくびゃく」の譬喩たとえです。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
と、渡りに船の譬喩たとえも恥かしい。水に縁の切れた糸瓜へちまが、物干の如露じょろへ伸上るように身を起して
開扉一妖帖 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そこで運出はこびだした一枚は、胸を引いて吃驚するほどな大皿に、添えものがうずたかく、鳥の片股かたもも譬喩たとえはさもしいが、それ、支配人が指を三本の焼芋を一束ひとつかねにしたのに、ズキリと脚がついた処は
薄紅梅 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
公子 譬喩たとえです、人間の目には何にも見えん。
海神別荘 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)