西塔さいとう)” の例文
「そら謡曲の船弁慶ふなべんけいにもあるだろう。——かようにそうろうものは、西塔さいとうかたわら住居すまいする武蔵坊弁慶にて候——弁慶は西塔におったのだ」
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
信長の旨をうけて、彼は従卒四、五人を連れただけで叡山へ、そして、僧兵の本陣である根本中堂で、西塔さいとう尊林坊そんりんぼうと会見した。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そのうちに比叡山ひえいざん西塔さいとう武蔵坊むさしぼうというおてらぼうさんがくなりますと、弁慶べんけい勝手かってにそこにはいりこんで、西塔さいとう武蔵坊弁慶むさしぼうべんけいのりました。
牛若と弁慶 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
そうしてはじめて比叡の西塔さいとう北谷、持宝房源光じほうぼうげんこうが許へ勢至丸を遣わされた。その時叔父の観覚の手紙には
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
叡山えいざん西塔さいとうに実因僧都そうずという人がいたが、この人が無類の大力であった。ある日、宮中の御加持ごかじに行って、夜更よふけて退出すると、何かの手違いで、供の者が一人もいない。
大力物語 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
すると先程からこの様子にみかねたのか、西塔さいとう阿闍梨あじゃりで、祐慶ゆうけいという、名うての荒法師が、白柄の大長刀おおなぎなたを杖について、七尺の長身を波うたせながら、人の列をかきわけて前に出てくると
ひところ、叡山えいざん西塔さいとうにもいたという義経よしつねの臣、武蔵坊弁慶べんけいとかいう男もこんな風貌ではなかったかと性善坊は彼のうしろ姿を見て思った。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
なおこれ名利の学問であるわいとたちまち皇円阿闍梨の許を辞して黒谷くろだに西塔さいとう慈眼房叡空じげんぼうえいくうの庵に投じた。これは久安六年九月十二日、法然十八歳の時のことであった。
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
一体御前方はただ歩行あるくばかりで飛脚ひきゃく同然だからいけない。——叡山には東塔とうとう西塔さいとう横川よかわとあって、その三ヵ所を毎日往来してそれを修業にしている人もあるくらい広い所だ。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
西塔さいとうへ行った帰りに、自分を強迫した荒法師のことばや、態度から察しると、どうも、問題は、穏やかに納まりそうもない。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「満山の大衆だいしゅ」手で鼻を抑え、声まで変らせて、西塔さいとう、東塔、叡山えいざんの峰、谷々にある僧院の前へ行っては、厄払やくはらいのように、呶鳴ってあるくのであった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「拙者が浪人西塔さいとう小六と申す者、即ちお恥しいがこの掛小屋の主でござる。してご用向きとは」
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
日下ひのした無敵叡山えいざん流投げ槍の開祖。西塔さいとう小六対手あいて。=福野流体術金井一角対手=と記し、その下には、三本勝負一本どり金弐拾両、二本どり五拾両、三本どり百両などという細目さいもくしたためてある。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)