紐育ニユーヨーク)” の例文
英国の文豪キプリングが、ある時米国の雑誌が見たいから、五六種送つて欲しいと、紐育ニユーヨークにゐる友達のとこへ頼んでよこした事があつた。
女史は私の紐育ニユーヨーク時代からの友人であつた画家柳敬助君の夫人で当時桜楓おうふう会の仕事をして居られた。明治四十四年の頃である。
智恵子抄 (新字旧仮名) / 高村光太郎(著)
東京は猛火に包まれ殆ど灰燼くわいじんに帰してしまつた。紐育ニユーヨーク電報が報じて云。大統領 Coolidgeクーリツジ は日本の Mikadoミカド へ見舞の電報を打つた。
日本大地震 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
あとは、日本服をて、わざと島田につた令嬢と、長らく紐育ニユーヨークで商業に従事してゐたと云ふ某が引き受けた。
それから (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
今日こんにちの隅田川は巴里パリーに於けるセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、また紐育ニユーヨークのホドソン、倫敦ロンドンのテヱムスに対するが如く偉大なる富国ふこくの壮観をも想像させない。
水 附渡船 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
この俳優がある時紐育ニユーヨークの舞台へ出るために、夫人と一緒に、その頃すまつてゐたフイラデルヒヤから紐育行きの汽車に乗り込んだものだ。
鐵と石ばかりの紐育ニユーヨークに居た時分、炎暑の爲めには幾人も人死があるやうな恐しい日には、自分はよく青々した日本の海邊うみべを思出したが、いざ日本に歸つて此樣こんな寒い風に吹かれると又反對に
新帰朝者日記 (旧字旧仮名) / 永井荷風(著)
そのシユワツブ氏が、ある時黒ん坊の運転手と肩を並べて、同じ運転手台に腰を下して、紐育ニユーヨークの街を走らせてゐたことがあつた。
されば一度ひとたびニユーヨークに着して以来到る処燈火ならざるはなき此の新大陸の大都のが、如何に余を喜ばしさふらふかは今更いまさら申上まをしあぐるまでもなき事と存じ候。あゝ紐育ニユーヨークは実に驚くべき不夜城に御座侯。
夜あるき (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
ヰンストン・チヤアチルといへば亜米利加の小説家だが、ある時何かの席で紐育ニユーヨーク富豪かねもちのお嬢さんと隣合せに坐つた事があつた。
紐育ニユーヨーク電報によると、大使は米国政府から旅券を交附するといふ報知しらせを受取ると、叱られたちんのやうに眼に涙を一杯溜めて
「今の芸当だね、あれを何処で習つたと思はつしやる。一年前紐育ニユーヨーク大通おほどほりで、せつせと辻自動車タキシき使つたお蔭でさ。」
今病気でせつてゐるルウズヴエルト氏が、ずつと以前紐育ニユーヨーク州の知事をしてゐた頃、一人の農夫爺ひやくしやうおやぢをよく知つてゐた。
その人こそシカゴの有名な銀行家ジオヂ・レイノルヅ氏で、今では紐育ニユーヨークの銀行を除いては、米国第一の大資本をつてるシカゴ某銀行の頭取である。
五十年前といへば、支那人は欧米人をえびす扱ひにして、ひどく毛嫌ひしたものだが、その頃支那に渡つて貿易業を始めたばかりの紐育ニユーヨーク生れの商人あきんどがあつた。
それを聞いた法科大学の佐藤丑次郎博士は、自分がその米国案内記を持つてゐる事を思ひ出して、紐育ニユーヨークの詳しい地図と一緒に、使つかひで内田氏のところへ持たせてやつた。
紐育ニユーヨーク愛蘭アイルランド生れの音楽家ヴヰクトル・ヘルバルトといふ男が居る。最近この音楽家に男の児が生れた。
中野氏が先年紐育ニユーヨークに留学してゐた頃、語学の教師に、ある寡婦ごけさんの米国婦人を頼んだ事があつた。
米国で聞えた新聞紙紐育ニユーヨークトリビユウンの創立者ホオレエス・グリイリイは、優れた新聞記者の多い米国でも、とりわけ優れた記者として聞えた男だが、ある日政府筋の役人に会ふと
紐育ニユーヨーク書店ほんやでふだん宗教物ばかり出版してゐる店が、欧羅巴ヨーロツパのいろんな国から、その代表的作家の代表的作物さくぶつを選んで何々叢書といつたやうな小説集を出版しようともくろんだものだ。