榎本武揚えのもとたけあき)” の例文
瘠我慢やせがまんせつは、福沢先生が明治二十四年の冬頃に執筆せられ、これを勝安芳かつやすよし榎本武揚えのもとたけあきの二氏に寄せてその意見をもとめられしものなり。
瘠我慢の説:01 序 (新字新仮名) / 石河幹明(著)
碑の背面に食人之ひとのしょくを食者はむものは死人之事ひとのことにしすの九字を大書して榎本武揚えのもとたけあきと記し、公衆の観に任してはばかるところなきを見れば、その心事の大概たいがいうかがいるにるべし。
瘠我慢の説:02 瘠我慢の説 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
その翌年の二月、條野採菊じょうのさいぎく翁が伊井蓉峰いいようほう君に頼まれて「茲江戸子ここがえどっこ」という六幕物を書くことになった。故榎本武揚えのもとたけあき子爵の五稜郭ごりょうかく戦争を主題テーマにしたものである。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
もともと、諭吉ゆきちは、榎本武揚えのもとたけあきという人間にんげんをしってはいましたが、ふかいつきあいをしたことはありません。
五稜廓ごりょうかくで奮戦した榎本武揚えのもとたけあき氏とも往来をして非常な徳川贔負びいきの人であって剣道も能く出来た豪傑、武士道と侠客肌きょうかくはだを一緒につき混ぜたような肌合いの人物で、この気性で
この年箱館はこだてっている榎本武揚えのもとたけあきを攻めんがために、官軍が発向する中に、福山藩の兵が参加していた。伊沢榛軒の嗣子棠軒とうけんはこれに従って北に赴いた。そして渋江氏を富田新町にうた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
時の農商務大臣は旧幕人の榎本武揚えのもとたけあきであつた。
政治の破産者・田中正造 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
榎本武揚えのもとたけあきって人があるだろう。」
幕府ばくふ海軍かいぐんのせきにんしゃだった榎本武揚えのもとたけあきも、この五稜郭ごりょうかくでとらえられたのでした。
また勝氏と同時に榎本武揚えのもとたけあきなる人あり。これまたついでながら一言せざるを得ず。
瘠我慢の説:02 瘠我慢の説 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
仙台せんだい洋学者ようがくしゃ大童信太夫おおわらしんだゆうをたすけだしたり、千葉ちば長沼村ながぬまむら人々ひとびとのために、ちからをつくしたこともありますが、ここでは、その一つのれいとして、榎本武揚えのもとたけあきをすくったはなしをとりあげておきます。