暗憺あんたん)” の例文
そして東京に向かって電車が動き出すと、また絶望と自嘲がよみがえって来て、暗憺あんたんたる気持になったのであるが、もうすでに時は遅かった。
いのちの初夜 (新字新仮名) / 北条民雄(著)
私は再び暗憺あんたんたる気持ちになった。これは、いけない。「馬鹿」で救われて、いい気になっていたら、ひどい事になった。
(新字新仮名) / 太宰治(著)
その心、夜に似て暗憺あんたん、いひしらず汚れにたれど、また一種の美、たとへば、濁江の底なる眼、哀憐あいりん悔恨の凄光せいこうを放つが如きもの無きにしもあらず。
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)
室の下等にして黒く暗憺あんたんなるをうれうるなかれ、桂正作はその主義と、その性情によって、すべてこれらの黒くして暗憺あんたんたるものをば化して純潔にして高貴
非凡なる凡人 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
おやとまたもそちらにひとみをそらすと、暗憺あんたんとして物色も出来ぬ中に、例のちゃんちゃん姿の三介さんすけが砕けよと一塊ひとかたまりの石炭をかまどの中に投げ入れるのが見えた。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
しかし、永遠にあの妻を失ってしまった後の荒寥落莫たる自分の生活を想うと、また別種の暗憺あんたんたる絶望が襲うてきて……私は思わず頭を抱えてうめきを挙げずにはいられなかった。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
楊志は暗憺あんたんとなった。絶望に打ちのめされて、以来、怏々おうおうもだえを独り抱きつづけた。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
また打上ぐる波に呑去られてはたまらずと、海賊の巨魁きょかいが身を縛して死しいる大檣にシカと縋付すがりついて眺むるに、暗憺あんたんな海上には海坊主のごとく漂える幾多の怪物見ゆ眼を定めて見れば
南極の怪事 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
客はひとり残されて、暗憺あんたん、憂愁、やるかたなく、つい、苦しまぎれのおならなど出て、それもつまらない思いで、立ち上って障子をあけてにおいを放散させ
新釈諸国噺 (新字新仮名) / 太宰治(著)
連山の頂は白銀のくさりのような雪がしだいに遠く北に走って、終は暗憺あんたんたる雲のうちに没してしまう。
武蔵野 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
そして、暗憺あんたんたる裾野すそのの方角へ小手をかざしてみると、こはなにごと!
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ここに暗憺あんたんとして薄暗き帳場ちやうば
牧羊神 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
稽古の地獄が、一刻も念頭より離れず、ただ、暗憺あんたんたる気持であった。道楽で役者修業をしているんじゃないのだ。僕の暗さは、だれにもわからぬ。「どうぞよろしく」か。
正義と微笑 (新字新仮名) / 太宰治(著)
単にわが空漠くうばくたる信念なりとするも、わが心この世の苦悩にもがき暗憺あんたんたる日夜にちやを送る時に当たりて、われいかにしばしばなんじに振り向きたるよ、ああワイの流! 林間の逍遙子(しょうようし)よ
小春 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
暗憺あんたんたる闇いくさ、ただものすごい太刀音と、やりの折れる音や人のうめきがあったのみで、敵味方の見定みさだめもつかなかったが、勝負は瞬間に決したと見えて、前の蛇形陣だぎょうじんは、ふたたび一みだれず
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、暗憺あんたんたる家のなかで、丹羽昌仙のひくい声。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)