鹿鳴館ろくめいかん)” の例文
鹿鳴館ろくめいかんの夜会と演劇改良論とが新聞紙上に花を咲かせているのも、この時代の特色の一つで、その結果は知らず、ともかくも賑かいものであった。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
高塔山の麓、近くに白山しらやま神社のある高台に、鹿鳴館ろくめいかん張り、青ペンキ塗りのハイカラな木造洋館がある。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
その頃は既に鹿鳴館ろくめいかんの欧化時代を過ぎていたが、欧化の余波は当時の新らしい女の運動を惹起じゃっきした。
三十年前の島田沼南 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
○予六歳にして始めてお茶の水の幼稚園に行きける頃は、世間一般に西洋崇拝の風はなはださかんにして、かの丸の内鹿鳴館ろくめいかんにては夜会の催しあり。女も洋服着て踊りたるほどなり。
洋服論 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
『奈緒美』と云う名はお祖母ばあさんが附けてくれたんで、そのお祖母さんは鹿鳴館ろくめいかん時代にダンスをやったハイカラな人だったと云うんですが、何処まで本当だか分りゃしません。
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
それは明治十八年頃のいわゆる鹿鳴館ろくめいかん時代で、晩年にはあんなゴチゴチの国粋論者、山県元帥やまがたげんすいでさえ徹宵ダンスをしたり、鎗踊やりおどりをしたという、酒池肉林しゅちにくりん、狂舞の時期があった。
国家組織のこの新光景は人心に若々しい緊張をもたらさずにはいなかった。憲法発布が鹿鳴館ろくめいかんの文化と結びついているごとく、この時代にも結髪や衣服の唐風化が急速に行われた。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
勝海舟の明治二十年、ちょうど鹿鳴館ろくめいかん時代の建白書の一節に次のようなのがある。
安吾史譚:05 勝夢酔 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
殊にわたしなどはこう云う版画を眺めていると、三四十年まえのあの時代が、まだ昨日きのうのような心もちがして、今でも新聞をひろげて見たら、鹿鳴館ろくめいかんの舞踏会の記事が出ていそうな気がするのです。
開化の良人 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
明治、鹿鳴館ろくめいかんのにおいがあった。私は、あまりの懐しさに、馭者ぎょしゃに尋ねた。
新郎 (新字新仮名) / 太宰治(著)
明治初期に、鹿鳴館ろくめいかん時代という洋化時代があった。上流の夫人令嬢は、洋髪洋装で舞蹈会に出た。庶民もこれにならった。日本髪用の鼈甲を扱って来た室子の店は、このとき多大の影響を受けた。
(新字新仮名) / 岡本かの子(著)
これはこれ鹿鳴館ろくめいかんの新年宴会の夜なりけり。
藪の鶯 (新字新仮名) / 三宅花圃(著)
明治十八年——世にいう鹿鳴館ろくめいかん時代である。上下こぞって西洋心酔となり、何事にも改良熱が充満していた。京枝一座も御多分ごたぶんれず、洋装で椅子いすにかけテーブルにむかって義太夫を語った。
竹本綾之助 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
それはやがて大流行になった男女交際のさきがけをしたもので、いわゆる明治十七、八年頃の鹿鳴館ろくめいかん時代——華族も大臣も実業家も、令夫人令嬢同伴で、毎夜、夜を徹して舞踏に夢中になった
明治美人伝 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
末松青萍すえまつせいひょう氏たちの演劇改良の会が(末松氏は伊藤博文ひろぶみの婿)「演芸矯風会」に転身して、七月八日に発会式を、鹿鳴館ろくめいかんで催し、来賓は皇族方をはじめ一千余名の盛会で、団十郎氏令嬢の
朱絃舎浜子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
あの謹厳な、故山県やまがた老公もまた若くて、やり踊りをおどったとさえ言伝えられる、明治十七、八年ごろの鹿鳴館ろくめいかん時代は、欧風心酔の急進党が長夜の宴を張って、男女交際に没頭したおりであった。
明治大正美人追憶 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
夜会ばやり、舞踏ばやりの鹿鳴館ろくめいかん時代、明治十八年に生れた。
柳原燁子(白蓮) (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
鹿鳴館ろくめいかん時代の直後ですわねえ。
朱絃舎浜子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)