紫野むらさきの)” の例文
この秋に、京は紫野むらさきの大徳寺だいとくじで、故右大臣信長こうだいじんのぶながの、さかんな葬儀そうぎがいとなまれたので、諸国の大小名だいしょうみょうは、ぞくぞくと京都にのぼっていた。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
僧は早速、この卒都婆を持って急いで京に行き、一条の北、紫野むらさきのに忍び住む康頼の老母と妻子にみせたのであった。
徳川家康いえやすは三人を紫野むらさきの大徳寺だいとくじまらせておいて、翌年の春秀忠ひでただといっしょに上洛じょうらくした時に目見めみえをさせた。
佐橋甚五郎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
明治元年(翁五十二歳)、藩主長知公京都へ御上洛の節、同地紫野むらさきの大徳寺内、龍光院に御宿陣が定められた。
梅津只円翁伝 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
亡くなつた市川斎入は茶人だけに、紫野むらさきのの大徳寺にある、千利休の塔形たふがた墓石はかいしひどく感心をして
だが祟りを怖れて売り払うようにとの夫人のいさめも公の熱愛を曲げる力がなかった。公の歿後嗣子月潭が再び腫物を病むに当って、いよいよ菩提寺たる京都紫野むらさきの大徳寺孤篷庵こほうあんに寄贈せられた。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
大根の花紫野むらさきの大徳寺だいとくじ
五百句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
居士は愛弟子まなでし竹童をかかえて、いったいどこへつれていく気か? やがて森林をぬけて、紫野むらさきののはて、舟岡山ふなおかやまの道を一さんにのぼりだした。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
近くの地には、紫野むらさきのの大徳寺とか、その他、宿舎として恰好かっこうな建物がないではないが、家康いえやすはわざとたかみねふもとに野陣をいて、将士と共に野営していた。
剣の四君子:02 柳生石舟斎 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして、バラバラと舟岡山ふなおかやまをかけおりていく彼のすがたを見送っていると、たちまち、がけをこえ、雷神らいじんたきの流れをとび、やがて森から紫野むらさきののはてへかすんでしまった。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
公卿の第宅ていたく、会合、視察、そして近来は、紫野むらさきのへと度々出向く。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)