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施薬院
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せやくいん
ふりがな文庫
“
施薬院
(
せやくいん
)” の例文
寧楽朝
(
ならちょう
)
の世の盛りを
偲
(
しの
)
ばせる元林院
址
(
あと
)
とか、光明皇后が浴舎を建てて千人の
垢
(
あか
)
を去りたもうた悲田院
施薬院
(
せやくいん
)
の
址
(
あと
)
などもあるが、それも今は
宮本武蔵:03 水の巻
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
城内には
施薬院
(
せやくいん
)
のやうなものを
設
(
もう
)
けて、領内のあらゆる名医がそこに詰めあひ、いかなる身分の者でも
勿論
(
もちろん
)
無料で診察して取らせる、投薬もして
遣
(
や
)
るといふのであるから
梟娘の話
(新字旧仮名)
/
岡本綺堂
(著)
それから再度上京して来て
施薬院
(
せやくいん
)
の岩倉家に来客の応接や女中の取り締まりや子女の教育なぞまで担当するようになった松尾多勢子——数えて来ると、正月以来京都に集まっている同門の人たちは
夜明け前:03 第二部上
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
秋立つや
白湯
(
さゆ
)
香
(
こうば
)
しき
施薬院
(
せやくいん
)
俳人蕪村
(新字旧仮名)
/
正岡子規
(著)
鶉坂
(
うずらざか
)
の大きな建物は、病人を容れる養生所になるのだ。幕府の
施薬院
(
せやくいん
)
としては、小石川養生所と青山に一個所あるが、それは、両方とも漢方医の病院。
牢獄の花嫁
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
▼ もっと見る
京職は、病人や飢餓の者を、洛外の
施薬院
(
せやくいん
)
と
悲田院
(
ひでんいん
)
に、収容したが、すぐ入れきれなくなり、さらに、関をこえて、地方の飢民まで、都にはいり込んでくる。
平の将門
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
管領
(
かんりょう
)
の細川も松永
弾正
(
だんじょう
)
も三好
修理
(
しゅり
)
も、みな彼の手にかかっていたものだし、わけて禁中の御信任もあつく、余暇を
施薬院
(
せやくいん
)
の業に尽し、また後輩のために学舎を設け
新書太閤記:07 第七分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
施薬院
(
せやくいん
)
をひらいて、
薬師
(
くすし
)
だの
上達部
(
かんだちべ
)
だのが、薬を
施
(
ほどこ
)
したり、また諸寺院で悪病神を追い
退
(
の
)
ける
祈祷
(
きとう
)
などをして、民戸の各戸口へ、赤い
護符
(
ごふ
)
などを
貼
(
は
)
りつけてしまったけれど
親鸞
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
思い出されるのは、秀吉が、さきに
僧形
(
そうぎょう
)
の
施薬院
(
せやくいん
)
をして、
下鳥羽
(
しもとば
)
にある光秀の陣を訪わせ
新書太閤記:08 第八分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
そこで、
検非違使
(
けびいし
)
の
包待制
(
ほうたいせい
)
のごときは、
施薬院
(
せやくいん
)
の
医吏
(
いり
)
をはげまし、また、自分の俸給まで投げだして、必死な救済にあたっておりますが、いかんせん、
疫痢
(
えきり
)
の
猖獗
(
しょうけつ
)
にはかてません。
新・水滸伝
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
しかし
施薬院
(
せやくいん
)
、療病院、
悲田院
(
ひでんいん
)
など、彼らのための施設は、荒れはてていた。
私本太平記:05 世の辻の帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
施薬院
(
せやくいん
)
も、至極、無造作に
新書太閤記:08 第八分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
“施薬院”の解説
施薬院(やくいん / せやくいん)は、奈良時代に設置された令外官である庶民救済施設・薬園。この項目で説明。
施薬院(やくいん / せやくいん)は、聖徳太子が仏教の慈悲の思想に基づき、その地に薬草を栽培し、怪我や病気で苦しむ人を救うために四天王寺内に作ったと言われる施設。推古天皇元年(593年)、聖徳太子が大阪に日本最古の官寺・四天王寺を建立の際、四箇院の一つとして建てられたのが日本での最初とする伝承があり(四箇院とは施薬院に悲田院・敬田院・療病院を合せたものである)、社会福祉のはしりとして紹介される場合がある(収容型施設のはしりであることには間違いない。)。現在は大阪市天王寺区にある勝鬘院愛染堂が施薬院跡として、四天王寺病院(設置主体
四天王寺福祉事業団
)が施薬療病院として継承されている。
(出典:Wikipedia)
施
常用漢字
中学
部首:⽅
9画
薬
常用漢字
小3
部首:⾋
16画
院
常用漢字
小3
部首:⾩
10画
“施薬院”で始まる語句
施薬院秀成