土御門つちみかど)” の例文
承久じょうきゅうの乱にひとしくふしあわせな運命におあいなされた後鳥羽ごとば土御門つちみかど、順徳の三帝を祭神として、いまはそこに官幣中社かんぺいちゅうしゃが建っているのだが
蘆刈 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
御簾ぎょれんのうちはひそやかであったが、土御門つちみかど天皇も、彼のそうした真摯しんしな態度にたいして、しきりにうなずかせられていた。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
変後、北條義時父子が、後鳥羽上皇、順徳じゆんとく上皇、土御門つちみかど上皇を遠島に遷し奉つたことは、凶悪の極みであつて、その不臣は足利尊氏以上でないかと思はれる。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
都のてらでらの鐘がいぬの刻(午後八時)を告げるのを待ち侘びて、千枝太郎は土御門つちみかどの屋敷を忍んで出ると、八月九日の月は霜を置いたように彼の袖を白く照らした。
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
『類聚名物考』二八五に土御門つちみかど大臣「君が代は諫めの鼓鳥れて、風さへ枝を鳴らさゞりけり」
それは天皇の十六歳のときの子であり、その子は四歳で、皇位についている。それが天皇土御門つちみかどであるが、「天皇」といわずに、「院」といっていた。(『増鏡』による)
或いは土御門つちみかど三宝院さんぽういんへ資財を持運ばれたよしが、載せてございますが、いざそれが吾身わがみのことになって見ますれば、そぞろに昔のことも思いでられてまことに感無量でございます。
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
ところが北条泰時ほうじょうやすときの反対でそれが実現せず、土御門つちみかど上皇の皇子が即位せられた。これが後嵯峨天皇であった。これ以後北条氏の力は皇位継承にまで常に干渉いたすようになった。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
直義は急遽、土御門つちみかど高倉の兄尊氏の新邸へ逃げこんだ。よもやそこへはと、一時の難を避けるつもりであったのだろう。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「就いては大殿のお使いで、おれはけさ早う土御門つちみかどへ行って、安倍泰親殿の屋敷をたずねた」
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
或ひは土御門つちみかど三宝院さんぽういんへ資財を持運ばれたよしが、載せてございますが、いざそれが吾身わがみのことになつて見ますれば、そぞろに昔のことも思ひでられてまことに感無量でございます。
雪の宿り (新字旧仮名) / 神西清(著)
後醍醐ごだいご天皇の延元えんげん元年以来五十余年で廃絶はいぜつしたとなっているけれども、そののち嘉吉かきつ三年九月二十三日の夜半やはんくすのき二郎正秀と云う者が大覚寺統だいかくじとうの親王万寿寺宮まんじゅじのみやほうじて、急に土御門つちみかど内裏だいりおそ
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
その後かの承久乱のために、後鳥羽・土御門つちみかど・順徳三上皇の遷幸という未曾有みぞうの事件が生じて、後鳥羽院仙洞を中心にできていた都の歌壇がばらばらになったのは承久三年、定家六十歳であった。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
播磨守泰親の屋敷は土御門つちみかどにあって、先祖の安倍晴明以来ここに年久しく住んでいた。
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
承久の帝政回復のくつがえりから、時の北条義時のため、後鳥羽上皇は隠岐おきノ島へ、順徳、土御門つちみかどの二上皇も佐渡や土佐へ流された——宮方敗戦の深刻な悪夢は、百年後の今も深くきざみ込まれている。
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)