しばゐ)” の例文
しばゐは一人で出来るものでないから、俳優やくしや達の互の呼吸いきが合ふといふ事が何よりも大事である。先年道頓堀で仁左衛門と鴈治郎との顔合せ興行があつた。
型に入つた仮白せりふのやうな言廻し、秩序の無い断片的な思想、金色に光り輝く仏壇の背景——丁度それは時代なしばゐでも観て居るかのやうな感想かんじを与へる。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
何でも御贔屓ごひいきがひにしばゐを見に来たのだが、いつもの気紛れで貞奴さだやつこでも調弄からかはうと思つて楽屋口をくゞつたらしかつた。
いつだつたかもあるしばゐの稽古してゐる時、女優の一人にしぐさうしてもフロオマンの気に入らないのがあつた。
「うむ、雛児ひよつこばかりつてるのさ。」と俳優やくしや可愛かあいらしい口元をして言つた。「君も知つてるだらうが、今度のしばゐに僕の持役は、そら泥的どろてきと来てるだらう。 ...
政友会の三つち忠造ちゆうざう氏が、会の本部で退屈しのぎに、ズウデルマンの『マグダ』を読んでゐた事があつた。『マグダ』は言ふ迄もなく、松井須磨子の出世狂言として名高いしばゐである。
それに自分は今度のしばゐでは作者であり、伊藤公は普通たゞ観客けんぶつに過ぎない。作者が観客けんぶつに座を譲るやうな気弱い事では作者冥加みやうがに尽きるかも知れないからと、そのまゝ素知そしらぬ顔でじつと尻をおちつけてゐた。