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還幸
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かんこう
ふりがな文庫
“
還幸
(
かんこう
)” の例文
途上、ふもとの
善法律寺
(
ぜんぽうりつじ
)
では、俗に“もみじ寺”とさえいわれる——紅葉の盛りをごらんありながらお小休み。そして同日中に
還幸
(
かんこう
)
。
私本太平記:09 建武らくがき帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
それから天皇がご
還幸
(
かんこう
)
になるときには、
大神
(
おおかみ
)
はわざわざ山をおりて、遠く
長谷
(
はつせ
)
の山の口までお見送りになりました。
古事記物語
(新字新仮名)
/
鈴木三重吉
(著)
千早城もまた
大捷
(
たいしょう
)
と聞えたので、同じ五月二十三日、
還幸
(
かんこう
)
の沙汰を
布令
(
ふれ
)
だされ、晴れの都門
凱旋
(
がいせん
)
の途についておられたのである。
私本太平記:08 新田帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
まもなくおともどもに
難波
(
なにわ
)
のお宮へご
還幸
(
かんこう
)
になりました。
古事記物語
(新字新仮名)
/
鈴木三重吉
(著)
還幸
(
かんこう
)
の人数は、もう山を離れだしている。——
供奉
(
ぐぶ
)
には、吉田内府をはじめ、公卿あらかたと、
山徒
(
さんと
)
の道場坊
宥覚
(
ゆうかく
)
などもお供して行った。
私本太平記:12 湊川帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
▼ もっと見る
鹵簿
(
ろぼ
)
の
還幸
(
かんこう
)
には、全山お名残りを惜しんで、聖武の帝の
古
(
いにし
)
えもかくやと、みな申し
囃
(
はや
)
したものでしたが……今、やつれ
輿
(
ごし
)
にて、ここへ御避難あらせ給うと聞くや
私本太平記:04 帝獄帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
詩は、彼でなく、
大覚
(
だいかく
)
ノ
宮
(
みや
)
が書いたものである。——やがて天皇が、隠岐から都へ
還幸
(
かんこう
)
となった
曠
(
は
)
れの日に——高徳もまた宮と共に、
龍駕
(
りゅうが
)
にしたがって都へ入った。
私本太平記:11 筑紫帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
両朝合一で
賀名生
(
あのう
)
の後村上天皇が
還幸
(
かんこう
)
となれば、さしずめ、北朝は解消のほかはあるまい。
私本太平記:13 黒白帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
「奇異にひびくのか。こんな当然な言が。……
還幸
(
かんこう
)
、新政、そんな祭り騒ぎに万人酔うている
様
(
さま
)
こそ心もとない。くれぐれ、護良が嘆いておりましたと、父の
帝
(
みかど
)
へ、聞え上げい」
私本太平記:09 建武らくがき帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
「これは、漢の天子の
弘農
(
こうのう
)
へ
還幸
(
かんこう
)
せらるる御車である。不敬すな!」と、叱咤した。
三国志:04 草莽の巻
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
みかど
還幸
(
かんこう
)
の日となっても、建武の御新政始めには、
御内帑
(
ごないど
)
のくるしさ、ひと方ならず、
楮幣
(
ちょへい
)
(紙幣)を
発兌
(
はつだ
)
して、おしのぎあったほどだが、そのおりもまた道誉は、私財をかたむけて
私本太平記:10 風花帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
じつは今暁、かすかなる噂におざれど、
還幸
(
かんこう
)
の沙汰なす者あり、しかるに、主君義貞には、何も存じつかまつらず、余りに奇ッ怪なれば、これへ、実否をお伺いに参ったものにすぎませぬ
私本太平記:12 湊川帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
山東の地は遠いが、帝が洛陽へ
還幸
(
かんこう
)
されたことは、いちはやく聞えていた。
三国志:04 草莽の巻
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
「
還幸
(
かんこう
)
は夜に延ばされた」
私本太平記:12 湊川帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
“還幸”の意味
《名詞》
天皇が行幸先から帰ること。
祭礼などで神(神体)が神幸先から帰ること。
(出典:Wiktionary)
“還幸(
還御
)”の解説
還御(かんぎょ)とは、天皇・上皇などの貴人が外出先から居所に帰還することを言う。
本来は天皇・上皇に限定された意味で用いられていたが、後には三后・摂関・将軍などの貴人にも拡大されて広く用いられるようになった。これに対して天皇の還御は特に還幸(かんこう)と呼ばれるようになった。
(出典:Wikipedia)
還
常用漢字
中学
部首:⾡
16画
幸
常用漢字
小3
部首:⼲
8画
“還”で始まる語句
還
還俗
還御
還暦
還元
還城楽
還相
還魂
還来
還俗僧