還幸かんこう)” の例文
途上、ふもとの善法律寺ぜんぽうりつじでは、俗に“もみじ寺”とさえいわれる——紅葉の盛りをごらんありながらお小休み。そして同日中に還幸かんこう
それから天皇がご還幸かんこうになるときには、大神おおかみはわざわざ山をおりて、遠く長谷はつせの山の口までお見送りになりました。
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
千早城もまた大捷たいしょうと聞えたので、同じ五月二十三日、還幸かんこうの沙汰を布令ふれだされ、晴れの都門凱旋がいせんの途についておられたのである。
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
まもなくおともどもに難波なにわのお宮へご還幸かんこうになりました。
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
還幸かんこうの人数は、もう山を離れだしている。——供奉ぐぶには、吉田内府をはじめ、公卿あらかたと、山徒さんとの道場坊宥覚ゆうかくなどもお供して行った。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
鹵簿ろぼ還幸かんこうには、全山お名残りを惜しんで、聖武の帝のいにしえもかくやと、みな申しはやしたものでしたが……今、やつれ輿ごしにて、ここへ御避難あらせ給うと聞くや
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
詩は、彼でなく、大覚だいかくみやが書いたものである。——やがて天皇が、隠岐から都へ還幸かんこうとなったれの日に——高徳もまた宮と共に、龍駕りゅうがにしたがって都へ入った。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
両朝合一で賀名生あのうの後村上天皇が還幸かんこうとなれば、さしずめ、北朝は解消のほかはあるまい。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「奇異にひびくのか。こんな当然な言が。……還幸かんこう、新政、そんな祭り騒ぎに万人酔うているさまこそ心もとない。くれぐれ、護良が嘆いておりましたと、父のみかどへ、聞え上げい」
「これは、漢の天子の弘農こうのう還幸かんこうせらるる御車である。不敬すな!」と、叱咤した。
三国志:04 草莽の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
みかど還幸かんこうの日となっても、建武の御新政始めには、御内帑ごないどのくるしさ、ひと方ならず、楮幣ちょへい(紙幣)を発兌はつだして、おしのぎあったほどだが、そのおりもまた道誉は、私財をかたむけて
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
じつは今暁、かすかなる噂におざれど、還幸かんこうの沙汰なす者あり、しかるに、主君義貞には、何も存じつかまつらず、余りに奇ッ怪なれば、これへ、実否をお伺いに参ったものにすぎませぬ
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
山東の地は遠いが、帝が洛陽へ還幸かんこうされたことは、いちはやく聞えていた。
三国志:04 草莽の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
還幸かんこうは夜に延ばされた」
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)