求馬もとめ)” の例文
「十丁目の尾張樣御下屋敷にも變なことがあつたさうで、御留守居の安藤求馬もとめ樣と仰しやる方が、笹野の旦那の御口添へで、先刻お見えになつたよ」
文学士小林庄次郎氏も亡くなつた。史料編纂官の藤田明氏も亡くなつた。女子高等師範の須藤求馬もとめ氏も亡くなつた。文部編修官の重田しげた定一氏も亡くなつた。
津崎左近つざきさこんは助太刀のこいしりぞけられると、二三日家に閉じこもっていた。兼ねて求馬もとめと取換した起請文きしょうもんおもて反故ほごにするのが、いかにも彼にはつらく思われた。
或敵打の話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
里見※右衞門橋本九兵衞目付朝比奈七之助かち目付岩本大藏勘定奉行兼郡奉行松本理左衞門代官黒崎又左衞門市田武助町奉行緒方をがた求馬もとめ等出席ありて足輕あしがる共は白洲を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
男子がないので、同族の弥右衛門忠高の家から、七男の市十郎(幼名は求馬もとめ)を、十歳のとき、もらいうけた。むすめのお縫にめあわせて、家督をつがせるつもりなのは、いうまでもない。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
言ふ迄もなく柴田文内と吉住求馬もとめ。主君植村土佐守が、お菊横死のおもむきを聞いて、二人に香華料かうげれうを持たせたのです。
寛文かんぶん十年陰暦いんれき十月の末、喜三郎は独り蘭袋に辞して、故郷熊本へ帰る旅程にのぼった。彼の振分ふりわけの行李こうりの中には、求馬もとめ左近さこん甚太夫じんだゆうの三人の遺髪がはいっていた。
或敵打の話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
世故せこけた柴田文内と、若くて腕の出來る吉住求馬もとめは、お氣に入りの筆頭で、その日も土佐守の遠乘りのお供をして、呉服橋の上屋敷から、一氣に目白へのし
平太郎には当時十七歳の、求馬もとめと云う嫡子ちゃくしがあった。求馬は早速おおやけゆるしを得て、江越喜三郎えごしきさぶろうと云う若党と共に、当時の武士の習慣通り、敵打かたきうちの旅にのぼる事になった。
或敵打の話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
翌る朝、植村土佐守家來、柴田文内と吉住求馬もとめ、女乘物を用意して、お樂の茶店の裏口へ着けました。
石崎求馬もとめなる者に討たれて、碓氷貞之助一人生き殘つたが、善惡邪正は兎も角、爭ひのもとは婦人とわかつて、生き殘つた碓氷貞之助殿も、有無を言はせず永の暇と相成つたのぢや
「それがね、親分。相手が悪いんで。何しろ、千二百石の御旗本、佐野求馬もとめ様——」