木更津きさらづ)” の例文
草鞋を穿いて追っかけるほどの兇状でもないので、まあ其のままに捨て置きましたが、あとで聞くと木更津きさらづの方で変死したそうです。
半七捕物帳:66 地蔵は踊る (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
その時ちょうど肝腎かんじんの飴屋の丑松が、木更津きさらづへ行って留守、帰って来たところで、三人立会いの上、隠した場所から取出したのは昨夜ゆうべだ。
木更津きさらづ汐干しおひの場の色彩はごちゃごちゃして一見いやになりました。御成街道おなりかいどうにペンキ屋の長い看板があるから見て、御覧なさい。
虚子君へ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
もともと上総かずさ木更津きさらづの生れである彼は、関東者らしい熱血漢で、親分肌の、情誼じょうぎに厚いところのある、一風変った性格の持主なのであった。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
自分をわすれるにも程のあったものだというようなことを論じているうちに、船が木更津きさらづへ着きました。
大菩薩峠:23 他生の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
千葉、木更津きさらづ富津ふっつ上総かずさ安房あわへはいった保田ほた那古なご洲崎すさき。野島ヶ岬をグルリと廻り、最初に着くは江見えみの港。それから前原港を経、上総へはいって勝浦、御宿おんじゅく
名人地獄 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
十七歳の十二月はじめに上総かずさ木更津きさらづ鳥飼とりかいというところの料理兼旅館の若主人の妻となった。
松井須磨子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
それらが木更津きさらづ周辺の漁船で、網をいて魚を捕りながら芝浜へ着き、芝浜で魚をおろすと、また魚を捕りながら房州へ帰る、ということは、誰から聞くともなく聞いていた。
さぶ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
千葉県へ入って、木更津きさらづから千葉をとおり、木下きおろし、それから利根川について西へ廻り、野田のすこし北を通って元の粕壁へかえるという線——この線以内に聴音隊が配置されてある
空襲下の日本 (新字新仮名) / 海野十三(著)
二つのパラシウトが着陸したのは木更津きさらづ附近の海岸であった。二人が漁師のおかみさんに介抱かいほうせられて、そこの家に休息していると、やがて東京から、何台も何台も自動車が駈けつけて来た。
黄金仮面 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
森先生は、私たちが二年になると千葉の木更津きさらづ中学へ転任してゆかれた。めだたないひとだったので誰も悲しまなかった。先生の家族を停車場へおくって行ったのは生徒で私ひとりであった。
私の先生 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
星巌夫妻は東金を発して勝浦を過ぎ房州の沿岸を廻って洲ノ崎、館山たてやまを経て富津ふっつに来り、木更津きさらづより水路を行徳に還った。行徳より更に舟をやとい江戸鉄砲洲に向ったのは七月の某日であった。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
姐さん、木更津きさらづはどっちの見当かね
悪因縁の怨 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
お母さんが許して下さらないと決れば、その晩のうちに、専次さんと一緒にこの家を逃出して、木更津きさらづの叔父さんのところへ行くはずだったのです
母親は五年前に木更津きさらづの故郷で亡くなり、私はその翌る年伊勢屋に引取られましたが、母が生きてゐるうちに、何も彼も私に打ち明けてくれました
でも萬一、お富が自分の子であつては氣の毒と、母親のお徳が木更津きさらづで死んだ後、娘のお富を引取つて、掛り人とも、奉公人ともつかず、あのやうに働かせてをります。
「若旦那の金五郎様は、親御様と仲違いなすって、木更津きさらづの御親類にいらっしゃいます」
放埒はうらつでわがままで、その上亂暴なことがあつたために、二年越し木更津きさらづの親類に預けてありましたが、近ごろ江戸につれ歸り町内の人達にも隱し、そつと家の中に圍ひを作らせて
木更津きさらづの者で、この秋から住み込んでゐたが、——請人うけにんは小田原町の源七。
木更津きさらづでございます」
木更津きさらづで御座います」