易簀えきさく)” の例文
ツイ昨年易簀えきさくした洋画界の羅馬ローマ法王たる黒田清輝くろだせいき好事こうずの聞え高い前の暹羅シャム公使の松方正作まつかたしょうさくの如きもまた早くから椿岳を蒐集していた。
いづくんぞ知らむ、此日菅茶山は神辺かんなべにあつて易簀えきさくしたのであつた。「病嗝噎、自春及秋漸篤、終不起、実八月十三日也」
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
如貴命きめいのごとく、枕山翁易簀えきさく、誠に惜しき事致候。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
その時代、一番親しくしたは二葉亭の易簀えきさく当時暹羅シャム公使をしていた西源四郎と陸軍大尉で早世した永見松太郎の二人であった。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
然るに山陽病歿の前後に頼氏に寓してゐて、山陽の命を受けて其著述を校訂し、山陽の易簀えきさくするに及んで、後事を経営した関五郎と云ふものがある。藤陰と此関五郎とは同一人であるらしい。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
古川は今から十四、五年前に不遇の中に易簀えきさくしてしまったが、今でもなお健在であるはずの市川文吉とならんで露語学界の二大先輩であった。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
七十四歳を以て「外山邸舎」に歿したと云ふから、尾張中将斉朝なりともの市谷門外の上屋敷が其易簀えきさくの所であらう。諸侯の国政をあづかり聴いた平洲は平生「書牘来、読了多手火之」と云ふ習慣を有してゐた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
昨年の春易簀えきさくした杉浦天台道士もまた寄書家の一人であったが、或時何かの問題で天台道士と漣と論戦した事があった。
沼南は廃娼はいしょうを最後の使命としてたたかった。が、若い時には相応に折花攀柳せっかはんりゅうの風流に遊んだものだ。その時代の沼南の消息は易簀えきさく当時多くの新聞に伝えられた。
三十年前の島田沼南 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
天王寺大懺悔てんのうじだいざんげ』一冊を残した外には何の足跡をも残さないで、韜晦とうかいしてついに天涯の一覊客として興津おきつ逆旅げきりょ易簀えきさくしたが、容易にひつを求められない一代の高士であった。
美妙斎美妙 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
この三山も今では易簀えきさくしてしまったが、手紙は多分三山の遺篋いきょうの中に残ってるかも知れない。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
永眠する数日前までも頭脳は明晰めいせきで、息の通う間は一行でも余計に書残したいというほど元気旺勃おうぼつとしていた精力家の易簀えきさくは希望に輝く青年の死をかなしむと同様な限りない恨事である。
鴎外博士の追憶 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
同棲時代からの宿痾しゅくあにわかかさなって、去年の春ついに大杉の跡を追って易簀えきさくした。
最後の大杉 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)