“容儀(ようぎ)” の例文
縮をおる処のものは娶(よめ)をえらぶにも縮の伎(わざ)を第一とし、容儀(ようぎ)は次(つぎ)とす。このゆゑに親たるものは娘の幼(おさなき)より此伎(わざ)を手習(てならは)するを第一とす。
げにや榮華は夢か幻(まぼろし)か、高厦(かうか)十年にして立てども一朝の煙にだも堪へず、朝夕玉趾(ぎよくし)珠冠(しゆくわん)に容儀(ようぎ)正(たゞ)し、參仕(さんし)拜趨(はいすう)の人に册(かしづ)かれし人、今は長汀(ちやうてい)の波に漂(たゞよ)ひ、旅泊(りよはく)の月に跉跰(さすら)ひて
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
それは実朝の御台(みだい)を迎えに往くためであった。実朝の御台は奏聞(そうもん)を経て、坊門大納言信清卿(ぼうもんだいなごんのぶきよきょう)の息女(そくじょ)を迎えることになったので、鎌倉では容儀(ようぎ)花麗(かれい)の壮士(そうし)を選んでそれを迎いに往かした。
頼朝の最後 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
氏郷其日の容儀(ようぎ)は別に異様では無かった。「飛騨守殿仕立(したて)は雨かゝりの脇指にて候」とある。少し不明であって精(くわ)しくは分らぬ。が、政宗の如きでは無く、尋常に優しかったのであろう。
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
討手(うつて)の大將、三位中將維盛卿(これもりきやう)、赤地(あかぢ)の錦の直垂(ひたゝれ)に萌黄匂(もえぎにほひ)の鎧は天晴(あつぱれ)平門公子(へいもんこうし)の容儀(ようぎ)に風雅の銘を打つたれども、富士河の水鳥(みづとり)に立つ足もなき十萬騎は、關東武士の笑ひのみにあらず。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)