家茂いえもち)” の例文
自分の家の子のように呼捨てにしてはばからないことのみならず、江戸の将軍一族に対しても、或いは家茂いえもちがと呼び、慶喜よしのぶがと呼んでいる。
大菩薩峠:30 畜生谷の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
西暦一八六四年(元治元年)将軍家茂いえもちは、大名、旗本を引きつれて京都にのぼり、孝明天皇と会見した。そうして天皇の歓待を受けた。
十四代将軍(徳川家茂いえもち)の御台所みだいどころとして降嫁せらるるという和宮様はどんな美しいかただろうなぞと語り合ったりしているところだった。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
徳川家茂いえもちしたがって京都に上り、病を得て客死かくししたのである。嗣子鉄三郎の徳安とくあんがお玉が池の伊沢氏の主人となった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
朝廷からは将軍家茂いえもち公に是非とも上洛せよとの勅命が下り、将軍においても遂に上洛せらるる事になったので、藩の世子もその警衛として江戸から京都へ上った。
鳴雪自叙伝 (新字新仮名) / 内藤鳴雪(著)
六月十六日大将軍徳川家茂いえもちが軍艦開陽丸に乗じて大坂から江戸に帰城した。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
英艦来る夫れから攘夷論と云うものは次第々々に増長して、徳川将軍家茂いえもち公の上洛となり、続いて御親発ごしんぱつとして長州征伐に出掛けると云うような事になって、全く攘夷一偏の世の中となった。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
八月、家茂いえもち将軍となる〔昭徳公〕。一橋党ことごとく罪せらる。八月、密勅みっちょく水戸に下る。九月、間部詮勝まなべあきかつ京都に入る。梁川星巌やながわせいがん死す。梅田、頼その他の志士ばくくもの前後相接す。十一月、松下義塾血盟。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
文久ぶんきゅう三年は当時の排外熱の絶頂に達した年である。かねてうわさのあった将軍家茂いえもち上洛じょうらくは、その声のさわがしいまっ最中に行なわれた。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
徳川十四代の当城のあるじ家茂いえもち公の不幸なる生涯の物語をつぶさに聞いていたならば、この男は、ほんとうに涙を流して、自分のした仕事のいかに罰当ばちあたりな
大菩薩峠:25 みちりやの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
枳園きえんはこの年十二月五日に徳川家茂いえもちに謁した。寿蔵碑には「安政五年戊午ぼご十二月五日、初謁見将軍徳川家定公」と書してあるが、この年月日ねんげつじつは家定がこうじてから四月しげつのちである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
近臣のものは家茂いえもちの身を案じて、なんとかして将軍をまもらねばならないと考えるほどの恐怖と疑心とにさえ駆られたという。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
十三代の将軍が、わずかに三十五歳で亡くなった後に、幕府では例の継嗣けいし問題で騒ぎました。その揚句あげくに紀州から迎えられたのが十四代の将軍昭徳院殿しょうとくいんでん家茂いえもち)であります。
この年の九月に柏軒はあずかっていた抽斎の蔵書をかえした。それは九月の九日に将軍家茂いえもちが明年二月を以て上洛じょうらくするという令を発して、柏軒はこれに随行する準備をしたからである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
家茂いえもち薨去こうきょの後は、尾州公か紀州公こそしかるべしと言って、前将軍の後継者たることをがえんじなかった人である。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
十四代将軍家茂いえもち薨去こうきょが大坂表の方から伝えられたのは、村ではこの凶作で騒いでいる最中である。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
当時、将軍家茂いえもちは京都の方へ行ったぎりいまだに還御かんぎょのほども不明であると言い、十一隻からのイギリスの軍艦は横浜の港にがんばっていてなかなか退却する模様もないと言う。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)