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家光
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いえみつ
ふりがな文庫
“
家光
(
いえみつ
)” の例文
然るに、不幸にも
徳川
(
とくがわ
)
三代将軍
家光
(
いえみつ
)
の時に至って、鎖国令が発布されて外国との交通は全然杜絶するに至った。
東西両文明の調和を論じて帝国の将来に及ぶ
(新字新仮名)
/
大隈重信
(著)
『医心方』は徳川
家光
(
いえみつ
)
が半井瑞策に授けた書である。保晃は江戸において瑞策に師事した。瑞策の
女
(
むすめ
)
が産後に病んで死に
瀕
(
ひん
)
した。保晃が薬を投じて救った。
渋江抽斎
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
御弓矢槍奉行
(
おゆみややりぶぎょう
)
の
丹後守忠長
(
たんごのかみただなが
)
はすぐに伺候した。家綱はまだ十九歳であるが、三代
家光
(
いえみつ
)
の
濶達
(
かったつ
)
な気性をうけてうまれ、父に似てなかなか
峻厳
(
しゅんげん
)
なところがおおかった。
日本婦道記:箭竹
(新字新仮名)
/
山本周五郎
(著)
「上さま(
家光
(
いえみつ
)
)日光ご社参の日どりもせまっていることであり、一日もはやく天魔太郎をとっておさえるためには、広く天下に勇士をつのるほかはござるまい」
幻術天魔太郎
(新字新仮名)
/
野村胡堂
(著)
およそ残虐の限りを尽くした
家光
(
いえみつ
)
が死んで
家綱
(
いえつな
)
が四代将軍となっていたころのことである。
青銅の基督:――一名南蛮鋳物師の死――
(新字新仮名)
/
長与善郎
(著)
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九ツの時、将軍の
家光
(
いえみつ
)
から光の一字をもらい、十三で
右近衛権中将
(
うこんえごんのちゅうじょう
)
に任じられていたが、その
官位人爵
(
かんいじんしゃく
)
もおかしくないほど、どことなくおとなびても来、また人品もそなわって来た。
梅里先生行状記
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
三代将軍
家光
(
いえみつ
)
の時代まで怠らなかったという入朝の儀式を復活したものであり、当時の常識とも言うべき大義名分の声に
聴
(
き
)
いて幕府方においてもいささか
鑑
(
かんが
)
みるところのあった証拠であり
夜明け前:01 第一部上
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
というのは
元和
(
げんな
)
九年のこの二月二日に、ご当代
家光
(
いえみつ
)
公がご父君台徳院
秀忠
(
ひでただ
)
公から、ご三代の将軍職をお譲りうけになられましたので、それをお祝い記念する意味から、この日をお将軍日と唱えまして
右門捕物帖:12 毒色のくちびる
(新字新仮名)
/
佐々木味津三
(著)
駿河大納言
忠長
(
ただなが
)
卿のこころざしをついで、将軍
家光
(
いえみつ
)
に思いしらせるためには、
八重
(
やえ
)
の守りをうちやぶり、千代田の奥に忍びこんで、本懐をとげるまでに、
心外道人
(
しんがいどうじん
)
の教えにしたがって
幻術天魔太郎
(新字新仮名)
/
野村胡堂
(著)
ことに身体動作の
軽捷
(
けいしょう
)
さは神業のごとくで、慶安四年三月二十五日、将軍
家光
(
いえみつ
)
の上覧試合に
阿部道世入道
(
あべどうせいにゅうどう
)
と立合った時などは、跳躍するたびにその衣服の裾が
軒庇
(
ひさし
)
を払ったと伝えられている
松林蝙也
(新字新仮名)
/
山本周五郎
(著)
“家光(
徳川家光
)”の解説
徳川 家光(とくがわ いえみつ)は江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)である。乳兄弟に稲葉正勝・稲葉正吉・稲葉正利がいる。
15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は、家光のみである。
(出典:Wikipedia)
家
常用漢字
小2
部首:⼧
10画
光
常用漢字
小2
部首:⼉
6画
“家”で始まる語句
家
家内
家中
家来
家鴨
家主
家人
家族
家並
家庭