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頼通
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よりみち
ふりがな文庫
“
頼通
(
よりみち
)” の例文
鳥飼の院には、宇多天皇と遊女
白女
(
しらめ
)
との佳話があるし、神崎には、藤原道長の子
頼通
(
よりみち
)
と遊女
中君
(
なかのきみ
)
との情話がある。
随筆 新平家
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
頼通
(
よりみち
)
は
義家
(
よしいえ
)
にくわしく
奥州
(
おうしゅう
)
の
戦争
(
せんそう
)
の
話
(
はなし
)
をさせて
聞
(
き
)
きながら、おもしろいので
夜
(
よ
)
の
更
(
ふ
)
けるのも
忘
(
わす
)
れていました。
八幡太郎
(新字新仮名)
/
楠山正雄
(著)
藤原
道長
(
みちなが
)
の如きは、
一條
(
いちでう
)
、三條、後一條天皇の御代、三十余年にわたつて、政治の最高枢機に
与
(
あづか
)
り、その子
頼通
(
よりみち
)
も、父についで、摂政または関白たること五十余年であつた。
二千六百年史抄
(新字旧仮名)
/
菊池寛
(著)
道長には倫子と高松殿と
北政所
(
きたのまんどころ
)
が二人あるといわれたほどであったが、やはり嫡妻倫子腹の
頼通
(
よりみち
)
の子孫から
近衛
(
このえ
)
・
九条
(
くじょう
)
の二家が分れ、さらに五摂家に分れて今日に血を引いたが
中世の文学伝統
(新字新仮名)
/
風巻景次郎
(著)
後冷泉
(
ごれいぜい
)
天皇の
御勅筆
(
ごちょくひつ
)
の
額
(
がく
)
を今も
平等院
(
びょうどういん
)
の隣の寺で拝見することができるが、その頃の男の漢文の日記などに東宮時代の同帝がしばしば宇治の
頼通
(
よりみち
)
の山荘へ
行啓
(
ぎょうけい
)
になったことが書かれてある。
『新新訳源氏物語』あとがき
(新字新仮名)
/
与謝野晶子
(著)
▼ もっと見る
隆国は、関白
頼通
(
よりみち
)
の門をも、馬で乗り通ったというほどだから、公卿に似あわない
面
(
つら
)
がまえの男であったらしい。
新・平家物語:02 ちげぐさの巻
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
花山
(
かざん
)
・一条の御代から後三条・白河の御代にわたる頃で、御堂関白道長から、その子宇治関白
頼通
(
よりみち
)
の頃、美術史の方でいえば
法成寺
(
ほうじょうじ
)
や宇治の平等院が出来たいわゆる藤原時代の頂上で
中世の文学伝統
(新字新仮名)
/
風巻景次郎
(著)
“頼通(
藤原頼通
)”の解説
藤原 頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿、歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。
父道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇、後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。
(出典:Wikipedia)
頼
常用漢字
中学
部首:⾴
16画
通
常用漢字
小2
部首:⾡
10画
“頼”で始まる語句
頼
頼母
頼朝
頼光
頼山陽
頼母子講
頼政
頼宣
頼襄
頼母子